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終ノ空(感想)_不気味な作風とブラックな笑いで鷲掴みにするも内容は堅い

ノストラダムスの予言が旬だった1999年発表、ケロQのデビュー作品。
今となっては本当に馬鹿げた話しだが、20世紀末後半の日本では日常会話でノストラダムスの予言について話題にされることがあり、1999の7月にアンゴルモアの大王が降ってくると世界が破滅するという話題が自分の身内でも話題になることがあった。

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本作はその予言がきっかけとなり、狂気が加速しながら混乱していく学園の出来事を4人の異なる人物の視点から進行するストーリーとなっている。最初のきっかけは小沢という不良生徒が屋上から飛び降りたことなのだが、起きた事象に対する捉え方の振れ幅が登場人物によって違うため、徐々に真相へ近づいていく展開がなかなか良く出来ている。

世紀末を迎えるにあたり、その先の未来ではなく終末を望む暗さ

進行は水上行人、岩槻琴美、高島ざくろ、間宮卓司 の順番に展開するのだが。後半2人は精神に異常をきたしているため正気ではなく、その暴走っぷりは他の美少女ゲームではあまり見られない酷いものとなっている。とはいえ、世紀末を目前にした当時の先行き不安な空気をうまく利用しており納得感はあった。
この不安の主な原因は、「昨日までと同じ日常が明日も続くという保証がない」という感情から生まれてくるものだが、世紀末という時代の空気感と見事に合っていた。きっかけは1973年に祥伝社から発行された『ノストラダムスの大予言』だと思うのだが、悲観的な予言を信じたくなるような時代の空気感もあった。

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日本ではバブルが崩壊して10年弱、就職氷河期やリストラまたは新興宗教という話題をメディアは取り上げていた(オウム真理教の地下鉄サリン事件は1995年)。これまでの常識は通用せずイケイケどんどんな時代は終わり、コロナウィルスの流行っている2020年現在もそんなに楽観的では無いが、当時も閉塞感が漂う状況なのでノストラダムスの予言へ期待を込めていた人もそれなりにいたと思う。
しかし、最終的にゲームの世界の中でも、もちろん現実にも破滅は起こらず、予言の日以降も日常は連続していたという結末なため、最終的には一過性の狂気であったというオチになる。

本作は"人の生きる意味"が主題になっており、哲学者の言葉を引用するなどして真面目に語られているかのようでありながらも、かなりふざけた演出が頻出するために笑うべきか悲しむべきか判断に迷うような場面が多々ある。さらにイラストの色合いや立ち絵のバランスが独特過ぎて、下手なのか狙ってやっているのか判断がつかないのだが、かなりクセがあるために気味の悪い作風のイラストが、作品の怪しい雰囲気をいい感じに増幅させている。
音楽も質が高いとは言いづらいが、作品の雰囲気と合っておりとても不安な気持ちにさせられる。

また、発売日が1999年8月27日ということで、残念ながらノストラダムスの予言による7月より前には間に合わなかったようだ。恐らくマスターアップ出来なかったのだろうがこのテーマのゲームこそ遅延してはいけないゲームのはずで、そういう残念さも含めてどこか愛おしい作品。

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水上行人の視点から見えるもの

いわゆる厨二病で世の中を斜に見ている水上行人。授業をサボって哲学書を読むなど、かなり拗らせてはいるが性格は素直であるし、答えの出ない問いに対して思考することを諦め無い。他人の気持ちに寄り添おうという考えを持てる人間なので好感の持てるキャラになっている。
しかも、囚われた琴美を助けに一人乗り込んで行ったりと正義感が強く暴力的。行人には「てめえらの血はなに色だーっ!!」と叫びながら同級生を殴りつけるシーンがあるが、これは世紀末繋がりで『北斗の拳 世紀末救世主伝説』に登場する南斗水鳥拳のレイが放った台詞。

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岩槻琴美の視点から見えるもの

部活は剣道をやっており、勉強も出来てルックスも良い優等生タイプ。それなりに充実した日常を送っているために、世界の終わりや生きる意味について深く悩むようなことは無い。
ノストラダムスの予言など信じてはいないし、そういうことを信じること自体が間違いだと思っている。そのため、ざくろや卓司とは対極の立場で生きており、それ故に卓司たちに攫われて暴行を受けたともいえる。
特別に親しかったわけではないが、高島ざくろが飛び降り自殺をする直前にざくろから声をかけられていたので罪悪感を感じている。4人の視点の中で最もアッサリした展開で進行し、行人のように拗らせていないし、ざくろや卓司のように性格が歪んでいないために、集団が暴走していくことを止めようとする立場にいる。

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高島ざくろの視点から見えるもの

小沢から日常的に暴行を受けており、友達と呼べる人はおらず家族との信頼関係も無い。ある日、ざくろを救うかのような手紙の届いたことがきっかけで、宇佐美と亜由美という女の子と知り合いになる。
人としてこの世へ生まれて来たからには「生きる意味が必要」だという思いに囚われているため、一緒に前世の記憶を取り戻して世界を救おうという誘いにアッサリとノッてしまうことになる。そうして、最終的には死ぬことを恐れる宇佐美と亜由美を叱咤しながらも3人で屋上から飛び降りることになってしまう。

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序盤の2人(行人と琴美)とは違い、ざくろは孤独に生きていながらも小沢に恐喝されているため救いようの無い境遇である。また本作品の特徴である"狂気"が徐々に露出し始めるために、普通の美少女ゲームとは明らかに違う雰囲気が加速しはじめる。また、前世の記憶を取り戻すことを"アタマリバース"、飛び降り自殺のことを"スパイラルマタイ"とフザけたネーミングセンスで会話がやり取りされるため、笑いの質はかなりブラック。

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間宮卓司の視点から見えるもの

ざくろ同様、小沢という不良に恐喝されており、小沢の自殺後も武井という不良から恐喝を受けている卓司。精神的に耐えられなくなった卓司はとうとう妄想が実体化するような感覚に陥ってしまう。そうして狂気を暴走させた結果、その存在感はなぜか預言者のようになり、遂には学園の生徒と教師を巻き込んでの集団飛び降り自殺の先導者となる。
しかし、卓司の行動や言動からは集団を洗脳するだけのカリスマ性と自殺へと導くだけの理由は薄い。世界は終わるが救われたければ一緒に死ぬしかないようなことを演説するも、そもそも世界が終わるという根拠が薄い(ノストラダムスの予言のみ)ために、集団を動かすだけの説得力が足りないのは残念。
卓司は精神に異常をきたしているだけあって、卓司の持つ不安が増幅されて可視化されたビジュアルや会話がまともに成立しなくなっている。4人の中で最も狂っており、その表現(フタナリ、巨大な顔、魔法少女など)がどこかユーモラスであるため、卓司編はこの作品の肝ともいうべき狂気パートになっている。

見られてるぅ


この馬鹿さ加減が絶妙で、かつ卓司の言い分にも同情的したくなるような面もあるために、全面的に否定出来るものではない。(誰しもが行人のように強くなれるわけではないのだ)

自己肯定感の低さによる現実逃避

本作品の重要なバックグラウンドとなっているノストラダムスの予言が日本で取り上げられた原因についてこう考えている。つまり、当時の日本には予言を信じたくなるくらいの息苦しさの中で生きている人が多く、そういうニーズが受け手側にもあったからメディアが取り上げたというのがあると思うのだ。

幸せを実感していれば、誰も世界の破滅など望んだりしない。生きている実感とも言うべき、やりがいや個性を誰もが持っていないといけないような考えが蔓延すると、「そんなものは持ち合わせていない」と空虚な感覚を覚えるようになる。とはいえ誰もが特別な個性を持てるワケがないし、格差の拡大なんかもあって1999年という頃は、本当に幸せを実感出来ないような人が相対的に増えてきたのではないかと思われる。

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その闇が深過ぎた場合、現状を打破するために世界の仕組みのリセットを望むようになるし、いっそ世界が滅びればよいとさえ考えてしまう。つまり、ざくろや卓司のように、日々いじめに遭っているような生活が続けば「なぜ自分だけが不幸なのか」という思いを溜め込み、さらには自分はなぜ生まれてきたのか。という意味を求めてしまうのも仕方の無いことなのだ。

そんなことではいけないという周囲からのプレッシャーもあり、その重圧に耐え切れなくなってしまって現実から逃避することになるわけだが、思い込みが激しいので抜け出すことが出来ずに暴走してしまう。ざくろと卓司の場合、それが「自分は世界を救えるという妄想」に歯止めが利かなくなり遂には周囲を巻き込んでの集団自殺という結末だ。

行人編_09

なんとも薄ら寒くて馬鹿げた展開のストーリーとなっているが、集団生活において人が他人に対して無関心であったり、寛容になれないと深い闇に陥ってしまうというのはあると思う。誰もいないところでの孤独ならまだしも、集団の中での孤独は本当に辛い。
殺伐とした空気は他人の痛みに鈍感になるし、実際に多感な行人はその空気に耐えられずに屋上へ逃げている。
それは高島ざくろの自殺を、さも同情しているかのように騒ぐクラスメイトのシーンが象徴的で、生前にざくろへ優しくした人物など琴美くらいのものなのでどんな言葉も偽善的に見えるのだ。
(自分としては、偽善であってもそういうコミュニケーションは必要だと思っている。死んだざくろのためではなく残されたクラスメイト達自身の心のバランスを保つためには必要なことだと思うから)
この終末を彷彿とさせる感覚は90年代の若者の生きづらさを掬い取った『リバーズ・エッジ(1993-1994年)/岡崎京子』に近いものがあると感じたのだけど『終ノ空』にはそういう時代の空気にうまく調和出来ていた作品だったなと今更ながら思う。

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