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禅僧のつぶやき

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物事に本気で取り組んでいると、自分に必要な事は案外向こうからやってくる。

意気込んで取り組むわけでもなく、決して向こうからやってくるのを待っているわけでもない。

ただ行うことを持続する。その工夫(巧夫)に道はあるのだ。

答えを言うのは簡単なことだ。ただその答えにどうやったらたどり着くのか。それを考えるのが難しい。
しかも、その過程を考える中で、答えが変わることだってあるんだから。

「違う」と「同じ」は正反対の違う意味。
しかしまた同じ意味を指すことができる。

違う言葉を使っているからって、違う話をしているとは限らない。
違う話をしているからといって、中身が違うとは限らない。

同じ言葉を使っているからって、同じ話をしているとは限らない。
同じ話をしているからって、中身が同じとは限らない。

言葉が溢れては消えていく。
さっき思いついたことも次の瞬間には消えてなくなっている。

この言葉を思いついた私と読んでいる私は同じなんだろうか?

私は私だが、同じ私だとは言えない。
私は私だから、違う私だとは言えない。

大慈寰中説得一丈話 「一丈を説くことは一尺を行うことには及ばない。一尺を説くことは一寸を行うことには及ばない。」※百寸=十尺=一丈 これは行が是、説が不是というのではない。 説くより行う方が学ぶことは多い。 しかし種(一寸)には種の、木(一丈)には木の学びがある。

「師勝資強」
師は師匠。資は弟子。勝はすぐれている。強はしっかりしている。

たとえ師が劣ろうとも弟子がしっかりしているのであれば、そういう弟子を見出した師はすぐれている。弟子が腑抜けても師がすぐれていれば、そういう師の弟子はしっかりせざるを得ない。

師弟はつながり独立する。

悟に迷う。
迷を悟る。

どちらも迷悟あるのは同じ。

慕古は古を慕(した)う。慕うはならうを意味する。
稽古は古を稽(かんが)える。同じことだ。

伝統的保守的になる事でもない。練習や訓練とも違う。
俺が古を知っているわけでもない。体得するわけでもない。

古を慕うこころがあれば、古の方から現に教えてくれる。

金は天下の回り物

私はこの言葉が好きではない。
「金は天下を回るものだからケチケチするなよ!」と浪費を煽るように使われたからだ。

でも自分がこの記事を書いて思った。
https://note.com/chisho_jinen/n/n3130946a167a

これも金は天下の周り物と言える。

「言葉は使いよう」である。

目標を立てるとはっきりする。
自分の見るべき方向が分かりやすい。

しかし目的以外のものが見えなくなる。
視野が狭くなる。

視野を広げると目的以外のものが見えてくる。
自分の見える景色が広くなる。

しかし焦点がぼやけて分かりにくい。
目標を無くすとぼんやりする。

基本は物事の中心である。どこへ行ってもその中心とつながっている。

たとえどこに行こうとも、行う事には基本がある。

世の中にはたくさんの答えがある。 その中から自分に最善の答えを得ようと手を伸ばし、選択する。 でもそれが最善の答えだなんて、どうして分かるのだろうか? 自分に問うことを抜きにして。 答えだけ選ぼうとするから迷ってしまう。 自分の問いから見つめていけば、自ずと答えは見えてくる。