大好きな秋は、洗濯機の横で
054 大好きな秋は、洗濯機の横で
大好きな秋を洗濯機の横に座って過ごす。10月の最終週から11月に私は大学に行けなくなる。これは毎年のことであるらしい。信州らしい紅葉の美しい季節である。部屋から出られなくなると、そんな自分がおかしくて一人の部屋で笑ってしまう。なんでそとに出られないのだろう。冷静な自分がどうしても可笑しい。頭を抱えながらクスクス笑っている。また別の日に体調がよくてそとに出ることに成功した。しかし今度は道端で突然足が前に進まなくなって膝を折ってしまう。少ししゃがんで少し歩いて、を繰り返す。
その一方で、この時期の松本はイベントが多く、すぐに出かけていってしまいたくなる。パルコの6階でブックマルシェが開かれていたので、遊びに行く。知り合いもいそう。マルシェで出展者さんのお話するのがとても好きなので、今回も話しかける。ただ、しばらくするともういいや、となってその場から逃げ出してしまいたくなる。お店の人と話すのは楽しいのに、早く逃げ出したくてたまらない。私の泣き出しそうな顔に口角だけをあげて交わす会話。
しんどいってことをもっと普通に言えたなら。それでも、最近はそんなzineや本が増えている気がして嬉しい。Instagramのキラキラと笑っている幸せそうな姿や絶望の底にいるような呟きの両極端な雰囲気が今の時代にはある気がする。もっと日常で小さな喜びと小さな悲しみ、辛さというものを受容できたらいいのに。
私の体のなかにある水は、外界の<海>に漂って、たぷたぷと重心を変える。大きな波が来たらそれに乗ってはしゃぎ、高く昇って、また海の中に沈む。沈んで音がなくなった世界では静かに自分を見つめている。そうして、水面に浮上すると太陽の暖かさに喜ぶ。刹那、予想外の波にのまれて重心も無く、ただくるくると流されるままに流れていく。それが日常。ただそんな激動の変化が自分のなかで起こっているという事実のままである。それはきっと私だけではなくて、世の中のひとに起こっていることなのではないだろうか。その感じ方が違ったり、一部が切り抜かれて表現されてたりしているだけなのだと思う。
この時期の私を、私は私の特性が最も現れる時期だと解釈するようになった。日が短くなり、寒くなることを敏感に感じ取り生き物としての本能を表すような遺伝子が働く(と私の先生と話した)。敏感すぎる感受性とそれに揺るがされた身体は、もともと私の中にある衝動性と多動性、こだわりの強さ、興味の広さ・偏りをはっきりと表すようになる。
この感受性を私は言葉を使って何とか表現して残しておきたい。それはなぜだかわからない。感情の昇華法なのか、同じ思いの人に届けたいのか、自伝でも作るつもりなのか、今の気持ちを無視してはいけないという気持ちなのか。
私も歌が歌いたい。今、이랑さんにはまっている。曲も歌詞もとっても好きだ。それに伴って、彼女のエッセイを読む。今は「悲しくてかっこいい人(原題:대제뭐하자는인간이지싶었다)」を読んでいる。気まぐれに開いたページを。彼女の楽曲の内容を匂わせる表現もあって、そんな楽しみ方ができる。最近最も共感したのは、「嫌いな人に会いたい」という文章は、彼女が私と全く同じことをしていることに驚いた。私の場合は大学の講義であったり、とあるグループの飲み会だったりするのだが、嫌いな話題や苦手な人の話題には興味があって、あえて出てみることがある。彼女のいうように、これを面白がるにはものすごいエネルギーを必要とする。パワーが有り余っている時にはいろいろと観察してみる。
本・中川さんでみさとさんと話すと、かつて(調べてみたら2016年)にgive meに이랑さんが来ていたようだ。私は、是非彼女にお会いしたい。お会いするタイミングの大事だと私は考える。一介の日本の学生として会うのと、同じアーティストどうしで会うのは意味合いが違うはずだ。私はいつか彼女とじっくりと対談してみたい。
이랑-<환란의 시대>
https://open.spotify.com/track/4CII0WtpcQOFaklYmkTZDa?si=5sP_bkZpTjiEn-2Xr7_ADA
20231030 月曜日