ぼくらの責任は、想像力の中から始まる。
責任が、想像力の中から生まれる…?
みなさん、こんにちは。知世きいろです。
今回の記事は、責任についてです。
Youtubeを見ていたら、
たまたま、おすすめに上がってきて、こんな動画を見ました。
アメリカ人男性が日本に来て、電車で、
「ヒロシマ、ナガサキ」と何度も発言し、「また落としてやる」と言った
という出来事を紹介している動画です。
心が、痛くなる動画でした。
なぜ彼はこんなことをしてしまったのだろうかと、考えていると、
ふと、私はこんな言葉を、思い出したんです。
そう。
「僕らの責任は想像力の中から生まれる。
逆に言えば、想像力のないところに、責任は生まれないのかもしれない。」
村上春樹の、『海辺のカフカ』に出てくる言葉です。
彼に責任はあるのか?
日本に対して、被爆地の名前を挙げ、侮辱的な発言をした、先程の動画のアメリカ人男性。
日本人はもちろん、世界各国から彼の行動は、糾弾されています。
人々は、彼に対する非難が、止まりません。
でも、私は、思うんです。
さて、彼には責任があるのだろうか?
と。そんな疑問が浮かびました。
もちろん、すごく怒れることで、彼のしたことは、
日本人としては、許せないことです。
でも、こうやって、
暴力的な発言や行動をしてしまう人って、
いっぱいいるわけですが、
彼らにはどうしようもなかったのではないか、といつも感じてしまいます。
彼らには、その言動が、
どういう結果を招いてしまうのか、
それを想像する力が欠如しているのではないか。
そんなふうに感じます。
社会的な責任なんだと思います。
動画のアメリカ人男性に、責任があるのか、といったら、難しい話です。
彼にはもとより結果を想像する能力が低いのです。
それは、きっと彼の責任ではない。
社会が彼の想像力の欠如を生んだのです。
だから、想像力のないところに、責任は生まれない。
彼には責任がない。
そう言えるんだと思います。
洋服屋に平気でスターバックスのコーヒーを飲んでしまったり、
老人が目の前に来ても、電車で席を譲らなかったり、
彼らには、想像力が足りていないんだと思います。
想像力のうちではなかったことが起きた時、
それは、やっぱり、個々人の責任ではなく、もっと大きな話だ、と思うのです。
アドルフ・アイヒマンの話
『逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように』
アドルフ・アイヒマン。
アイヒマンとは、かのホロコーストを行った人物です。
時は第二次世界大戦。
ナチス・ドイツによって、ユダヤ人が、何百万人も虐殺されました。
『海辺のカフカ』で、
アイヒマンの裁判について書かれた本を読んだ登場人物が、
最後のページに記した言葉が、
この、責任に関する言葉でした。
アドルフ・アイヒマンが、何をしたのか、
「海辺のカフカ」の中に書いてあるところがあるので、そのまま引用します。
「しかし彼が罪悪感を感じることは無い」そう言います。
ホロコーストの深い悲しみ、糾弾は、彼が想像しているものではなかった。
(無論それはナチス・ドイツの洗脳的な環境のせいではあったが。)
想像力のないところに、責任は生まれないとするならば、
やはりアイヒマンに責任はないと言えるのかもしれない。
もっと大きな話なのだから。
この想像力の欠如は、社会が生んでいる。
個人の問題ではないのだ。私はそう思います。
知世きいろ
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