焦燥少女

〇前書き
本編の内容に「時代だなぁ」という内容があるため、最初に言い訳をします。この小説は、私が学生時代に書いたものを、今になって校正したものです。当時、友人の友人が文学フリマに出す小冊子を作ることになり、なぜか声をかけてもらいました。当時から締切ギリギリまでウダウダしていた九喪居は、あと数十分、といったところで書き始め、一気に書き上げました。
最近になって知り合いの方が出し物をやりそうだったので「朗読にどうか」と思い、久々に読み返しました。……文章の粗がすごい。そのため数時間かけて校正をしました。校正って書いた時より時間かかるのね。びっくりしました。ひとまず、読める文章にはなったかと思います。まだ九喪居が既成もなかという名前だったころの作品に、何卒お付き合いのほどを。



焦燥少女                                    既成もなか

 劇場を出ると、夜の風がふいていた。下北沢の地を彩る多様な灯りのせいで、劇場に足を踏み入れた時と殆んど変わらぬ明るさが、そこには広がっていた。しかし、人工物特有のぼんやりとした明るさからは、虚しさしか感じられなかった。それが今しがた観てきた芝居のせいなのか、劇場という異空間から現実に引き戻された不安感からなのか、はたまた、道の真ん中で人目もはばからずなまめかしい動きを繰り返す男女のせいなのかは、判断がつかなかった。

 夜の風をもう一度真正面から受けて、彼女は身震いをひとつした。二十一歳、まだ世間の厳しさを知らないといった風な無防備な顔を上に向けて空を見る。天気予報で、「今日は晴れるが夜は急激に冷え込む」という内容を、端正な顔立ちの女性がその顔に似合う実に流暢な口調で話していたのを、今になって思い出した。顔をしかめると、彼女は財布の中身を確認する。

「……百五十円、かぁ」

 今しがた出て来た劇場を恨めしく見上げると、スマートフォンを取出す。年齢にはそぐわない、質素なものだった。カバーもキーホルダーもついていないそれを、彼女は慣れた手つきで操作し、SNSに芝居の文句を書き込むと、意を決したように下北沢駅へと向かった。

 

 駅につくと、大きなため息をついた。

「百五十円じゃどこへも行けないのね、ああ無情」

誰にも聞こえないように小さく呟くと、路線図からスマートフォンに目を移した。やはり慣れた手つきで操作し、目的の駅までは一時間ほど歩けば到着することを調べあげた。

 大学入学とともに一人暮らしを始め、節約をしてきた彼女にとって、交通費削減のために一時間歩くことはさほど珍しいことではなかった。地図の見方も、道順の記憶も得意になった。家に帰るには、まず、京王井の頭線に沿うように歩き、隣の新代田駅を目指す。

 線路を沿う道は、たまに閑静な住宅街に阻まれながら、途切れ途切れ続いている。道の途中に自動販売機を見つけ、ホットミルクティーを買った。残り三十円。街灯が少なくより一層寂しさを感じさせる風景と、財布の中身。気持ちを紛らわすようにホットミルクティーを体に流し込む。甘さと暖かさが体内を巡り、寂しさは溶けてなくなるような気がした。

 

さみしい、寂しい、淋しい

 

 しかし、どうやらこの寂しさは私にこびりついているようだ、と彼女は思った。そして何より、困った。原因がわからないからだ。先程まで、街灯や、道端のカップルや、芝居の内容のせいにしていたのに、どうしても離れていかない、この言い様もない空虚な感覚の正体を突き止めたくなってきていた。

 左手に新代田駅が見えて来たので、右に曲がり、道路沿いを歩く。自動車が横を通り過ぎるたびに風がふきつける。

 

 寒い、さむい、サムイ

 

 そうだ、サムイ。サムイのだ、とてもさむかったのだ、あの芝居は。

舞台上で女と男が愛し合う、薄ら寒い話だった。いや、厳密に言えば愛し合っているのがサムイのではなかった。舞台上で、女は男に激しく嫉妬していた。嫉妬による束縛。男はそれを快く受け入れ、「これこそ本物の愛だ」と言った。そうして、女は「本物の愛の言葉」とやらを、男にささげるのだった。

「愛しているわ、本当よ、だからどこにも行かないで、私だけを見ていて」

「ああ、約束するよ、何処にも行かない、絶対に」

「本当に、本当に信じていいの、私、あなたを信じていいの」

「ああ、信じていい、信じてくれ」

 

 サムイ、さむい、寒い

 

 芝居のワンシーンを思い出すだけで寒気がした。

 でもそれは芝居のせいだけではないということに、たった今、気付いてしまった。

 大きな交差点が見えた。左に曲がり、甲州街道沿いを歩く。ここまでくればもうあとは一本道だ。すでに冷たくなったミルクティーを飲み干し、自動販売機横のごみ箱に捨てる。暖かさを感じる唯一の物を手放したことにより、不安感が全身を襲った。

 

 怖い、こわい、コワイ

 

 今自分が一番怖がっているものはなんなのか、彼女はついさっき気付いてしまった。その事実に自分でも驚いて、いつの間にか早歩きになる。吐く息が、ミルクティーの最後の温もりを白く表現した。

 私は、私が、怖いんだ、変わっていく、自分自身が。

好きな人ができた。人生で初めての出来事だった。彼はとても合理的な人で、それでいて、こちらからは底が伺えないような深遠な世界で生きているように見えた。つまり、つかみどころがないくらい哲学的でもあった。

「合理的じゃない女性には好意を抱けないな、例えば、ほら、携帯電話にじゃらじゃらとキーホルダーをつけているのを見かけたりすると、気持ちが冷めるね。」

偶然耳にした彼の低くひんやりした言葉。それだけで、お気に入りのキーホルダーたちを全部外した。できるだけ彼の思考に近付こうと、読んだこともないような理系の本や、哲学書を読み漁った。全く意味がわからなかったけれど。

そんなある日、彼が友人と話しているのを聞いた。「束縛は、本物の愛だ」と。

彼のことがわからなくなった。でも、彼が言うのならそうなのだと思った。

そうこうしているうちに、彼には、彼女ができた。嫉妬した。でもそれは、束縛を伴うことはなかった。彼を束縛できるのは、たったひとり、あの子だけになってしまったのだから。

「アイシテイルワ、ホントウヨ、ダカラドコニモイカナイデ、ワタシダケヲミテイテ」

 答えなど返ってこない。芝居と現実は違う。外から見るとあんなにも薄ら寒い、そんなことを自分がしようとしていたこと、しかもそれが、もう叶わないこと。そんな現実全てが寂しくて寒くて怖かった。

 

 甲州街道を横断し、小さな路地に入る。アパートまでもう少し。

 気がせいて、思わず走り出していた。早く家に着きたい。一刻も早く自分のテリトリーに戻れば、こんな気持ちはかき消えると思った。

 

 コワイ、こわい、怖い

 

 あんなことを言えるあなたが。あの芝居の男女が。それらに憧れた私が。以前の自分を、いとも簡単にあっさりと捨てた、私が。

 前から後ろに流れていく街灯が流れ星のように見えた。しかしそれを綺麗だなんて思うことはできなかった、全てが私を責め、私にふりそそごうと競争をしているように見えた。

 

 走る、はしる、ハシル

 

 息が切れてきた。脳内に、芝居の男女と、あの子の、彼の、誰ともつかない声が、聞こえる。

「ねぇ、私はあなただけのものなの。だから、あなたは私だけのものよね?」

 違う。

「ああ、そうだね。そういう考え方はとても好きだよ」

 ちがう。

「愛しているわ、本当よ、だからどこにも行かないで、私だけを見ていて」

 チガウ!!

 

 アパートのドアを思いっきり開けた。肩で息をしながら、靴を脱ぎ、暗いままの部屋の、ベッドに倒れ込む。枕が濡れて初めて、彼女は自分が泣いていることに気が付いた。

 なんだ、そうか。

 すとん、と腑に落ちた。

 寂しい、じゃない。寒い、じゃない。怖い、じゃない。そうじゃないし、全部あっているのだ。

 そうか、私は、悲しかったのか。

 感情を認めるといくらか気が楽になった。さっきまでの葛藤が今度は馬鹿らしく感じられ、笑えてきた。泣きながら笑った。そうしてその日は、いつの間にか眠っていた。

 

 

「何か落ちたよ」

友人に声を掛けられ、彼女は振り返った。

「え、どれ」

「これこれ」

 友人が握っていたのは、何かの芝居の半券だった。

「ああ、それね、棄てていいよ、もう大丈夫だから」

 意味ありげな彼女の言葉に友人は少し首をかしげたが、考えても分らないし聞いても答えてくれそうにないと悟ると、その紙片を言われた通りごみ箱に入れた。彼女はすがすがしい気持ちでそれを見送ると、友人に感謝を伝え、歩き始めた。

 それから、案外高い金を払って芝居を観に行くのも悪くないものだよ、と友人に言った。友人は、へぇ、と答えた後、少し言いにくそうにしながら、続きの言葉を勢い任せに一息に言い切った。

「ええと、そのぉ、もしかしたら気が付いているかもしれないのだけれど、あなたのことが好きなので付き合ってくれませんか」

 そう、と短く答えた後、彼女はいたずらっぽく、何かを試すように、こう言った。

「アイシテイルワ、ホントウヨ、ダカラドコニモイカナイデ、ワタシダケヲミテイテ」

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?