見出し画像

ももんが忌〈橋本治読書日記〉

 今日は橋本治の命日、“ももんが忌”だ。
 私にとって読むことは著者との対話で、著者に想いを馳せることでもあるので、365日橋本治を読む私は「命日だから」といって特別にすることはなく、いつものように橋本治を読むだけだ。昨日『江戸フラ』文庫版の中巻を読み終わり、今日から下巻に入った。
 橋本治が亡くなったのは2019年の今日。平成があと数ヶ月というとき、まだコロナ禍の前。未知のウイルスのパンデミックで世界が混乱に陥ってから、SNS上で「橋本治なら今何と書くだろう」というような言葉を目にするようになった。
 そう思うなら読めばいい。読んで自分の頭で考えればいい。橋本治はコロナ禍も“ウクライナ戦争”も統一教会の成れの果ても見ていないけど、橋本治が生きて見ていた時代だって相当に激動の時代で、当時の時評を橋本治はよく書いたんだから、「橋本治なら」って言うなら読めばいい。
 終わった時代には興味がない?“今”でなければ意味がない?それは言い訳にならない。橋本治が書いたことの延長線上の世界を私達は見ているのだから。私はそう思うけど、「橋本治なら」と言う人に限って自分では読まない。橋本治が生きていて“今”を書いてもリアルタイムでは読まない人が、死んでから「橋本治なら」と言う。そう書くことで何かを言った気になってその先はない。次の瞬間には忘れて何か別のことを見たり言ったりしている。Twitterを例にとれば、わずか140文字の表面的な情報や言葉が、海に浮かぶ泡のように目の前を流れていく。泡を眺めるだけで時間は過ぎ、泡を生み出している海に目を向けようとはしない。次第に自分の思考すらTwitterのタイムラインのようになっていることに気づかない。140文字のインスタントな思考、生まれては消える泡のように形の残らない思考。それを続けて何になるというのだろう。「橋本治なら今何と書くだろう」の類も所詮泡の一つだ。
 橋本治が生きて書いてるときに読まないで橋本治が亡くなってから「何を書くだろう」というなんてズルい。そう思う一方で、実は私だって似たようなもんだ。

「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

小林秀雄『モオツァルト・無常という事』

 生きている人間は次の瞬間何をするかわからないが、死んだ瞬間に、その人間がどういう人間だったのかが決まる。小林秀雄はかつてこう言っていた。私のなかにはこの意見に同意する部分が根強くある。だから私は橋本治が存命中にも橋本治を読んでいたが、より熱心に読むようになったのは橋本治が亡くなってからだ。そのことに対する後ろめたさが少しある。
 橋本治は“信者”になりそうな読者を嫌悪していたこともあって、橋本治を熱心に読む読者であるほど、その表明の仕方に苦慮するはずだ。だが、今思えば私は、どうして読むことと表明することを同一視していたのだろう。表明しなくても読むことはできたはずなのに、“一人で読む”ことができなかったのはなぜだろう。世間での評価を気にして読む本を選んでいたようにも思える。
 今も昔も本と読者の付き合いかたは「文献に誠実に向き合い、よく読む」を理想とする。私はそう考える。今だって、橋本治の本の絶版の流れがこんなにも速くなければ“表明”なんて考えなくてもいいのだ。でもそれだけだったら、橋本治は歴史から消えてしまうかもしれない。橋本治の影響力から言って消えることはないだろうけど、でもどこかで誰かが刻んでいかないと橋本治は古くなっていくばかりだ。
 最近の私は決意表明ばかりしている。読むこととアウトプットのバランスは難しいけれど、橋本治の著作を残すためにできることを模索しながら橋本治を読み続ける。というか、橋本治を日本文学史に正当に位置付けることを目標にすると、当然ながら橋本治以外の日本文学を膨大に読んでいかなければいけない。橋本治が『失われた近代を求めて』で膨大な日本文学から文体史を繙いたように。目が眩む。でもまだ時間はある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?