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あたし達は、あたし達の時代という限界の中で、十分に自立しようとしてたんだ

平安時代は和歌が必須教養でした。枕草子を書くくらいですから、清少納言は和歌が得意です。でも、必須教養だからと言って誰もが和歌を好きなわけではありません。
清少納言が結婚していた橘則光は、和歌が嫌いでした。清少納言によれば、「和歌を詠んでくるやつは敵と思うぞ」という愚痴をよく言っていたそうな。妻は和歌で突出した才能を発揮していて、男たちから称賛されることは誇らしく思う気持ちがある一方、和歌は好きになれない夫..。

「橘則光も、平安時代にはいくらでもいた『和歌が苦手な男』で、だからこそ『なんで清少納言はそういう男と結婚を続けていたんだろう?』と思うのです。
二人の結婚生活はやがてうまくいかなくなります。則光は『なんとかうまくやって行きたい』という手紙を清少納言に贈るのですが、彼女はその返事に和歌を詠んで贈りました。もうおしまいです。則光はそれに答えず、そのまんま二人の仲は終わってしまったんだと、『枕草子』の第80段(あるいは79段)にはあります。」
──橋本治『古典を読んでみましょう』

「古典を読んでみましょう」という本でこのエピソードを知ったとき、私は初めて「枕草子が読めるかもしれない」と思いました。

結婚、家族、女の自立、生き方について、今“当たり前”になっている考え方から自由になりたい。「昔はよかった」と言いたいのではなく、時代によって“当たり前”はこうも幅があるんだということを知りたい。中巻で最も長い註を読みながら、私は深い理解者を得たように感じました。

「子持ちの女が才能とか能力とかさ、そういうもん買われて宮仕えに出りゃ、当然子連れにだってなる訳でしょ。」
「子供育てるっていうんで、まともな女が母親になったら乳母を雇うっていうのは当たり前なんだよね。」
「乳母っていうのは、勿論赤ちゃんにお乳をあげる役目なんだからさ、母乳が出ることが最低の条件でしょ。だとしたら、母乳やってる女に“亭主”がくっついてたってなんの不思議もないよね─ということはさ、亭主なしで“母乳が出る女”やってるシングル・マザーだってザラにいたってことだよね。乳母もいるし子供もいるし、下手すりゃ乳母の亭主もいるっていう、あたし達の“勤務先”っていうのは、とんでもなく人間的な世界だったのよね。だってそうでしょう?人間にプライベートライフがないなんて、そういう考え方自体がおかしいじゃない。」

「あたし達の家族関係っていうのはさ、一人前になったらみんな別居しちゃって『やァ、こんにちは』『ごきげんよう』って、そういうことしてるのが当たり前だったの。そういつまでもしつこく“親子のきずな”やってるのなんて気持ち悪いと思わない?親子は親子で、その後どう“近い他人”としてつきあってくかって、そういうことを基本にしてるほうがよっぽどノーマルだと思うんだけどなァ─社会生活を営むような“人間”という動物としては。赤ん坊育てるのは乳母の仕事っていう、そういう分業体制が確立しちゃってる訳だからねェ、“母性絶対”なんていう、ヘンテコリンな考え方もない訳だしねェ。それで人間的な感情が生まれないっていうんだったら、あたし達の時代の“文化”っていうのはどうなっちゃうんだろうねェっていう話もあるけどさ。」

「一つ家ン中でジトーッとしてんじゃなくてさ、職場っていう、自分が表現出来るような場所を持ってられるっていうことの方が、ズーッとズーッと大切だと思うからさ、あたしはね、そういう職場で、あたしっていう女が生きて行きやすいように、気持ちっていうものをシャキンとさせてたいと思うの。」
「自分を試せる職場って、いいわよ。あたしね、自立ってこと考えると思うの。意外とあたし達の時代の女って自立してたんだって。“経済的に”じゃないわよ。生活の心配考えたら二度目の亭主はオッサンになるしかないってのがあるからさ、とてもじゃないけど、経済的に自立なんかしてなかったと思うの。」

「自立ってことはさ、立派に社会の一員であるってことなんだと思うの。あたしの生き方なんて、かなり不徹底だと思うわよ。だって、大きなこと言ったって、その清少納言が“その後”どうなったかなんて誰も知らないしね。あたしだって言いたくもないしね。当たり前につまんない女で結局終わりましただけでさ、それでいいと思うのよね。だって、今から千年前なんだもん。不徹底で当たり前だと思うよ。でもさ、覚えててほしいなって思うのは、あたしがつまんなく“男の愛”なんてもんによっかかんなかったってことね。オッサンの生活力には最後よっかかったかもしんないけど、それこそそんなもんは時代のせいなんでさ、そこに至るまであたしは、ただ男の愛を“黙って待ってる”なんて、バカな生き方をしなかったってことね。一杯男がいる世界で、対等に男と渡り合ってったってことね。そんで、あたし達の時代の女達はみんな、“男の愛”なんてものを、実は頼りに出来なかったのよ。女はみんな、男がやって来るのを待ってなきゃいけなかったんだけど、でも、それがみんなにとってはかえって当たり前だったんだよね。だから、あたし達の時代っていうのは、後の世の中から見れば“薄倖のヒロイン”がゴマンといるみたいだけどさ、でも、そういう時代に生きてるあたし達自身は、そん中で当たり前に生きていこうとして、強かったんだ。家の中の簾の中にいるしかなかった、男を媒介にして世の中とつながってくしかなかった女達が、でもそれゆえに対等に男と渡り合って行くようになった、渡り合っていられた時代が千年前にあったってことを忘れないでほしいのね。あたし達は、あたし達の時代という限界の中で、十分に自立しようとしてたんだって、十二単のソソとした、見た目で判断しちゃダメよ。平気で子連れのキャリアがいたんだから─」
─橋本治『桃尻語訳枕草子』(中巻)

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