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本に棲むナマズ─3月に読んだ本

「活字メディアによって外の世界の情報にふれることは、森や松村といった高学歴の女性に限られたものではなく、文字を読むことのできる娼妓たちは楼主にうとまれつつも講談本や国民大衆誌といわれた『キング』を読み、新聞からも情報を吸収した。それは『読む』という行為が、外に出ることのできない遊廓という空間における数少ない娯楽であったということと、強いストレスに満ちた日常を生き抜く希望を得るために不可欠だったからである。文字を読むことはただの受動的な営みではなく、社会のなかに自らの位置付けを探る能動的な行為であり、さまざまな矛盾を認識した娼妓たちはその状況を変えるためにさらに直接的なはならきかけをはじめるようになった。それは表に出ない手紙のやりとりであったり、ときにはストライキや集団逃走の形をとった。(中略)
また、状況改善を求める娼妓たちのなかで森や松村のような教育のある娼妓たちは、ときに特別な位置を占めることになった。松村は森光子の『婦女会』の記事をほかの娼妓たちに読んできかせ、森の親友である千代駒は張り店で森の『光明に芽ぐむ日』をほかの娼妓たちにせがまれて大きな声で読んだという。そこでは、〈読む〉という日常的な実践が、状況を変えていくひとつのたしかな力になっているのである。」

山家悠平『生き延びるための女性史』pp.146-147

3月に読んだ本
①『国家の尊厳』先崎彰容
②『鏡の中のアメリカ』先崎彰容
③『ぼくは翻訳についてこう考えています 柴田元幸の意見100』柴田元幸
④『新装版 動物のお医者さん2』佐々木倫子
⑤『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』與那覇潤
⑥『違和感の正体』先崎彰容
⑦『池澤夏樹、文学全集を編む』河出書房新社編集部/編(*橋本治の名前だけが一度出てくるのみ)
⑧『維新と敗戦 学びなおし近代日本思想史』先崎彰容
⑨『なぜオスカーはおもしろいのか?受賞予想で100倍楽しむ「アカデミー賞」』メラニー(発売直後に買ったまま積んでおいたが今年の授賞式前にやっと読めた)
⑩『萩尾望都がいる』長山靖生(*橋本治言及あり、ただし引用や要約にかなり偏りがあると思う)
⑪『ライ麦畑のミステリー』竹内康浩
⑫『トラウマ・歴史・物語 持ち主なき出来事』キャシー・カルース
⑬『〈少女小説〉ワンダーランド 明治から平成まで』菅聡子/編(橋本治『桃尻娘』が出てこない少女小説解説。私は桃尻娘は少女小説だと思うし、明治から平成までっていうんなら入っていてほしい。全体的に吉屋信子がレジェンド的扱いなのはよくわかったが、彼女の代表作と同名の短編集が橋本治にあるのは単なる偶然なのか?『花物語』ね)
⑭『生き延びるための女性史 遊廓に響く〈声〉をたどって』山家悠平
⑮『アフター・モダニティ─近代日本の思想と批評』先崎彰容・浜崎洋介
⑯『過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか』與那覇潤
⑰『謎とき「ハックルベリー・フィンの冒険」─ある未解決殺人事件の深層』竹内康浩

論文・評伝
①岩川ありさ「クィア作家としての谷崎潤一郎」(『谷崎潤一郎読本』五味渕典嗣+日高佳紀/編)
②岩川ありさ「クィアな自伝─映画『ムーンライト』と古谷田奈月『リリース』をつないで」(川上未映子責任編集『早稲田文学増刊 女性号』)
③岩川ありさ「pixivという未来」(『日本サブカルチャーを読む─銀河鉄道の夜からAKB48まで』押野武志/編)
④柳沢健「ぼくらのふしぎな橋本治」第二回・第三回(「小説宝石」2024年3月号)

3月に入る前から併読していたものが何冊かあって、それらを続々と読了していったので冊数は増えた一ヶ月だった。あと二ヶ月くらいは図書館本を中心に読んで、徐々に購入本にシフトしていくつもり。じっくり読むために買った本なのだから、本当は購入本をメインにしていきたいんです…。

精読が説得力を持ったときの凄みを、竹内康浩さんの本を読むと感じる。サリンジャーもトウェインも読んだことないけど、「よく読む」ということの面白さと奥深さを実感する。橋本治でこういうふうに書けないだろうか。そういえば橋本治もそうだった。人生相談でも古典翻訳でも「こういう書き方がされているのだから、こうとしか考えられない」と論が進んでいくのは単なる決めつけや思い込みではない。よく読むことができ、そして想像力がある人にしかそれはできない。書かれていることから“書かれていないこと”を発見することが最も想像力を必要とすることだからだ。逆に言えば、人の書いたものをそのように読める人の文章を読むということも、同じように読む力と想像力が必要で、私は今その訓練をしているとも言える。

歴史叙述と小説は何が違うのかということが『生き延びるための女性史』にあって、橋本治『草薙の剣』を読むうえでの大きなヒントになるのではないかと思った。『草薙』で登場人物が書き割りのような描写にとどまったのは、千木良悠子さんが言うようにあの小説の主人公が時代そのものであるからだという面も確かにあるのだが、歴史叙述でやる手法を小説に持ち込んでいたからだとも考えられる。以下該当部分を引用するが、ここで引用されている藤原辰史『歴史の屑拾い』を私が即購入したのは言うまでもない。

「ホロコーストという圧倒的な暴力の前に死んでいったひとたちの歴史は重く胸に響いてくる。ホロコーストをテーマにした物語や映画も数多くつくられている。しかし、実際に歴史のなかで死んでいったひとりひとりの人間は、悲劇や感動の物語を生きていたわけではない。死にゆくその瞬間まで、そのひとりだけの固有の生を生きていたのである。その点で、歴史研究者の藤原辰史が『無数の無名の人間たちの物語が読者に容易に感動を与えないようにしてこそ、歴史の中で唯一無二の存在として存在したという尊厳を与えることになるのではないか』と批判的にジャブロンカに言及していることにわたしも強く同意する。
簡単には共感したり理解したりはできない歴史のなかの他者の、沈黙は空白として描写すること。その空白は、死んでいったひとたちを想像する契機にもなる。読み手が、歴史のなかの他者との想像的なつながりをつくっていくことを、研究者があらかじめ奪うべきではない。それは多くの点で重なりあうところを持つ歴史叙述と小説の、小さいようで、本質的に異なる地点であると感じている。」

山家悠平『生き延びるための女性史』pp.229-230

『草薙の剣』の登場人物は架空の人物だが、橋本治のなかでは「その時代にあのように生きていた人はきっといたに違いない」というリアリティがあったはずである。だからこそ、小説の人物に対して史実を書くように描写した。私にはそのように思えてならない。

「あなたはこの作品で何が言いたかったのか、と作者に問うのは一種の侮辱、少なくとも批判、だと思う。面白ければ『何が言いたかったのか』という問いは出てこない。『何が言いたいかわかってたら、小説なんて面倒なものは書かずに、最初からそれを言ってるよ』とあるアメリカの作家は言っていました。」

柴田元幸『ぼくは翻訳についてこう考えています』p.112



コロナ禍で約5年間中断していた歯の治療を再開し(担当医はとっくにやめていた)、治療の最終日に「フロスを毎日するように」と指導を受けて新たな習慣が加わった。「絶対に覗いちゃだめですよ」と言って鏡の前でフロスを始めると必ず人がやってきて「イヤーッ!ナマズッ」という。または「釣られてる?」と聞かれて「ふはへへふ、ふはへへふ(釣られてる釣られてる)」という会話が夜毎繰り広げられている。釣られたナマズは本を読む。本に棲むナマズとして生きていくのだ。

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