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ただのファンに戻って

千木良悠子さんの『はじめての橋本治論』は素晴らしかったが、自分のやりたかったことを自分では到達できないレベルでやられてしまったという事実は認めざるを得ない。膝から崩れ落ちて膝の皿が割れるくらいの衝撃ではあった(精神的に)。橋本治が『源氏供養』で紫式部に「ご苦労さま」と書いたように、私も橋本治にそう書くことを憧れてもいたが、千木良さんが本編の締めで「橋本さん、ありがとう。おつかれさま」と書かれているので、もう、完膚なきまでに自分の目標ってなくなっちゃったのかなー、という日々を送っている。(自称)研究者としては失格だ。
でも、なんとなくホッとしているところもあって、それは自分のきょうだいが子供を育てると決めたときの、肩の荷が下りた気持ちに似ている。「あ、これで私は子供を産ま(持た)なくてもいいんだ」と思うことは、私が子供を産みたくないと無意識に思っている証だ。親が私に「子供を」なんて一言も言わなかったのと同じように、世間の誰も私に橋本治論を書けなんて言わないけれど、私は自分にそれを課して、勝手にプレッシャーを感じていたようだ。
だから今の私は、もう一度ただのファンに戻って橋本治を読んでいる。それはやっぱり、とても楽しい。次の目標が決まらないことに焦る気持ちはあるが、今はもう少し、ファンとしての読書を楽しもうと思う。ただ、千木良さんは『人工島戦記』の書評も書いているのだが『はじめての橋本治論』には収録されなかったので(入れるところがなかったそうだ)、研究としての活路を見出すとすればやはり『人工島』かな、というかすかな光は残っている。

若いときの読書は「何て言ってやろうかな」と思いながら読むものだけど、年老いてからの読書はそんなこと関係なく読めるから楽しいみたいなことを小林秀雄の講演音源で聞いたことがある。その気持ちが今はわかる。

昨日高円寺で開催された仲俣暁生さんの橋本治イベントをオンラインで視聴した(アーカイブあり)。橋本治展や『はじめての橋本治論』刊行などで、没後はじめてと言えるくらいの盛り上がりをみせているものの、新聞記事などで橋本治が紹介されるとある定型を辿ってしまうことに疑問が呈されていていて、確かにと納得した。東大に入りポスターを描き、桃尻でデビューして古典翻訳をかなりやったが変わりダネでは編み物なんかもやっていたという表向きに整えられた経歴には飽きちゃった、という人は橋本治読者には一定数いるはずで私もその一人である。仲俣さんは橋本治が雑誌の仕事をめちゃくちゃやっていたことや同人誌を自作して手売りしていたことに注目する。確かにそうなんだ。国会図書館のサイトで橋本治を調べると雑誌の寄稿や記事はとても多いし、デビュー前は「映画の友」で膨大な映画の知識を吸収し、やがて同誌に俳優イラストを投稿するようになった。考えてみれば、雑誌連載をまとめた本や、雑誌記事を核に大規模に加筆して単行本になったものは橋本治の著作に数多くある。絶望的に売れなかったとは言うが同人誌『恋するももんが』のように“みんなで集まって遊ぶように何かを創る”ことを橋本治は絶対に愛していたはずで、だからこそ分断化されてバラバラになった時代に孤独を深めていくことにもなる。
高校時代の体育祭や受験期のエピソード─みんなでやろうと決めたことをやるのは結局橋本治だけだったり、みんなで同じ方向に歩いていたはずだったのに橋本治以外が一斉にソッポを向き、取り残される─はおそらく高校時代に限らず、それを象徴とするような瞬間に橋本治は人生のなかで幾度も直面していたように思う。そこにジレンマがあるとすれば、橋本治はみんなで何かすることを愛していながらも群れず、狂信者を拒絶することのできる誇り高い人だったということだ。『桃尻娘』で描かれたように、みんなで遊ぶのがいくら楽しくても、みんなで大人になることはできない。一人で自立しなければならないときは必ずやってくる。でもそうやって一人で大人になったあとは、またみんなで社会を作ることができるはずだ…それが『ぼくたちの近代史』で説かれた“原っぱの論理”だと思うけれど、現実はそうなっていない。みんながバラバラに大人になったあとは、バラバラになりっぱなし。SNSやオンラインサロンでフォロワーになる人もフォローされる人もその不健全さに疑問は抱かない。「狂信者は狂信したまま付いてくればいい、それでその人の人生が破滅しても自己責任でしょ」と言わんばかりのインフルエンサーが溢れるのは地獄絵図でしかない。橋本治はそうならないように自ら体現していたんだ、でもそれを理解し実行する人は少なかった。橋本治の孤独は、ただ群れられなかったからだけではない。
神奈川近代文学館に来ているお客さんは橋本治と同世代が多くて、橋本治を懐かしいと思ったり橋本治を読んできた人は多いのになんで日本は今こんなふうになっちゃっているのかと仲俣さんは言っていて同意しながらも暗澹たる気持ちになった。橋本治は孤独になって、病気になっても“孤独で不幸であることの象徴”であるタバコをやめることはなかった。タバコを吸わなければもう少し長生きできたかもしれないのに、橋本治にタバコを吸わせたのは読者なのではないかとも言われていた。
先日の神奈川近代文学館での橋爪大三郎さんの講演における「橋本治、全共闘シンパか否か論争」(?)の話題で、仲俣さんは「そういう問い自体が違うと思う」というようなことを言っていて、それが答えだなと思ったりした。共感するところもあるけれど暴力的なやり方には賛同できない、つまり両方のアンビバレントな立場だった、と。「両極端を抱えて生きること」は橋本治を理解する鍵の一つだ。全共闘賛否はもちろん、男女や世代や自他(個と集)、冗談と真面目、ポルノとアンチ・ポルノ、聖と俗など、立場が分かれるような場面で「橋本治がどちらだったのか」を問うことはそれ自体が無意味だ。どちらかに決めつけて批判することは言うまでもなくお門違いだということ。だから橋本治を論じるときに伴う怖さというのは、橋本治がやった仕事の膨大さのおかげで全体像が把握しにくいということもあるが、「掴んだ」と思った瞬間にスルリと手の中を抜けていってしまうものを追いかけるような感覚がつきまとうからだと思う。「こうだ」と思っても橋本治は正反対のことを言いそうで、理解されることを徹底的に拒むような複雑さがある。両極端なものが矛盾なく同居するには間を繋ぐ複雑な論理があって、それが私にはまだわからなくてこわいんだ。

トークイベントの聴衆の中にライターの矢内裕子さんがいらして、最後の質疑応答部分で、執筆中の橋本治インタビューの内容を少し聞けて嬉しかった。とても読みたくなった。待ち遠しいな。

最後に揚げ足取りみたいになるけど、仕事で校正をする職業病で話の中の間違いが気になってしまった。「ぼくらのふしぎな橋本治」を連載中の柳澤健(やなぎさわ・たけし)さんの名前を「けん」さんとずっと言っていたのをはじめ、『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』が復刊された際に仲俣さんは解説を書いているが、解説を「あとがき」と言っていたり、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を『花咲く少女たちのキンピラゴボウ』、「花の24年組」を昭和23年組、「とめてくれるなおっかさん背中(せな)のイチョウが泣いている」を“せなか”と言ったりしていて気になった。でも、一つ一つは小さなことで、気にしない人は気にしないし、実際仲俣さんも気にしない人なんだろうと思う。私は『橋本治「再読」ノート』で橋本治の『宗教なんかこわくない!』を『宗教なんて怖くない!』と書かれているのが気になってしょうがなくて内容が頭に入ってこなくて苦労したが、はじめて話を聴いてそういう小さい間違いを気にしないからなんだろうなと思った。

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