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戦場での魂の対話〜3つの映画を通して見えてくること〜


 『戦場のメリークリスマス』
 『硫黄島からの手紙』
 『プライベート・ライアン』

 以上の3つ映画の内、2つが日本軍を描いた映画であり、1つがアメリカ軍を描いた映画だ。
日本軍の様子とアメリカ軍の様子のそれぞれの内部を見たことで印象に残ったのは、軍内部の精神的環境と日本の軍隊の特殊性である。その特殊性の背景には、『戦場のメリークリスマス』でも『硫黄島からの手紙』でも描かれていた、天皇崇拝というものがあるだろう。

 日本軍は、どんなにリベラルな思想や経験がある人物であっても行動の根底に天皇の存在がある。また、どれだけ偉い立場にいる人であっても、言論や思想の自由がなく、常に見えない何かに抑圧を受け暗黙の了解のようにそれに従っているように見えた。その、見えない何かというのが天皇という名の神であり、それに逆らうことが出来ない風土である。天皇信仰こそが、日本人を第二次世界大戦に駆り立てた行動原理の重要なファクターだ。

 こうした日本人に対し、『プライベート・ライアン』でのアメリカ人同士の会話は印象的であった。彼らは、自分たちに下された命令に対して率直に感情を吐露し意見を言う。また、「死にたくない」と漏らす場面もあり、戦争下で身体や行動の自由は制限されている状況であっても、精神的な自由(思想・言論)に関しては守られているという印象を受けた。日米両者とも、「国家のため」という大義は同じであるが、その実態や内部の様子は随分と異なる。アメリカ人はまず自分、という主体が先にあった上で戦争に参加しているが、日本人は個人の胸の内はどうであれ、国家が主体であり国家や上司の考えが自分の考えとなっている。『硫黄島からの手紙』で、栗林が「国家の意思が自分の意思では」と欧米人に言うシーンが端的に表しているように、精神的な土壌が根本から異なっているのだ。

 こうした違いはありながらも、共通しているのはどの映画も「圧倒的理不尽」な環境に置かれた人間を描いている点である。戦争自体、理不尽が跋扈する場であるが、その点を踏まえた上で3作それぞれに異なる理不尽な状況が人物たちを襲う。『戦場のメリークリスマス』では、捕虜と軍の関係という圧倒的な優位性がある状態における理不尽、『硫黄島からの手紙』においては思想の不自由からくる理不尽、『プライベート・ライアン』では命の忖度に関する理不尽である。それぞれの作品が、理不尽で且つあらがえない状況に置かれたときに、人間はどのような行動をとるのかについての冷静な考察がなされている。そして、いずれの作品の理不尽下においても人間同士のコミュニケーションが描かれているのだ。そのコミュニケーションとは、国籍や言語、はたまた生死といったあらゆる境界線を越えた、人間対人間の魂の対話である。それは、第二次世界大戦という大国同士がぶつかり合う惨い歴史の一幕がもたらした、唯一の救いであり人間にとっての価値であったのかもしれない。

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