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地動説と0をめぐる雑感

先日、魚豊氏の「チ。-地球の運動について-」を読んだ。
大変に興味深い内容なので、これから読む方の楽しみを奪わないように簡潔に説明すると、地動説とカトリック(キリスト教正統派、作中ではC教と呼ばれている)を巡る物語だ。
説明がざっくりしすぎていて面白さが全然伝わらないと思うが、本当にお勧めしたい本です!

さて地動説といえば、ガリレオ・ガリレイの名がよく知られている。
彼は異端審問で有罪になり、地動説を放棄させられたが、カトリック全体がこの説を敵視していたわけではない。
当時の教会は、知的好奇心は旺盛だが経済力がない若者が学問を志すときの受け皿として機能しており、むしろこの説を支持していた者の割合は、一般市民より多かった可能性すらある。
つまり聖書を今まで通りの解釈をしていると起こる矛盾点を解消する新説、これまでのキリスト教神学の枠組みを破壊して、さらに神の御業に近づける新解釈として歓迎されてもいたのだ。
(単にこっちの説のほうが正しいような気がする、好き、とか思っていた人物もそれなりにいたかもしれない)
これは真偽の争いではなく、権威vs革新の戦いだった。
1992年に時のローマ法王が、ガリレオの有罪判決は誤りだったと公式に認めたが、これは表向きはカトリックは真実のために革新しつづけるという宣言だったと思う。

カトリック、というより西洋的世界観が地動説以上に拒絶したものがある。
それは0(ゼロ)の概念である。
私は学生時代、世界史を習ったときに不思議に思っていたことがある。
なぜ紀元0年がないのか?
数直線をイメージすると0が中心(起点)となって左右にプラスとマイナスの数が延々と続いているが、西暦は紀元1年の隣りは紀元前1年だ。
つまり1の隣りにいきなり-1が来るわけだ。
だからこれに限っては1を起点にする設定だと思えばいいのだが、どうにも気持ち悪い感じがしたのを覚えている。
不思議に思った、というのはソフトな表現で、正しくは、どうにも相容れないが、自分で起点を0(年)にすることは出来ないから、もう無視するしかないという感じだった。

私のあのときの気持ち悪さは何に由来するのか分かった気がしたのは、チャールズ・サイフェ氏の「異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念」という本を読んだときである。
この本によると、0とは無であり無限でもある概念だが、これは仏教でいうところの空の概念に相当する(と思う)。
これをキリスト教世界観に導入すると、最初に創造主はいなかったことになってしまい、天動説か地動説かの聖書の解釈の違いどころではなく、もはや世界は跡形もなく破壊されてしまう。
つまり、相容れないから無視するしかないというのは、西洋的世界観から見ても同じことが言えるのだ。
とはいえ、0~9までのアラビア数字は実用に便利すぎるので(ローマ数字で数字を表記、計算することを考えてみてほしい)、教会内でも計算するときにこっそりこの数字を使って、公式の書類として提出するときにローマ数字に書き換えることがしばしば行われていたらしい。

ちなみに0は古代バビロニア発祥でインドで発展し、アラビア(イスラム)を通じて西洋に流入したと考えられているが、私はキリスト教以上にイスラム教に詳しくないので、一神教であるイスラムの世界観では何故0が寛大な扱いなのかは分からない。
もしかして本に書いてあったかもしれないが、多分20年くらい前に読んだきりなので覚えていない。
それでも私が過去に読んだ本の中で、屈指のエキサイティングな読書体験だったのはよく覚えている。
神の姿を描いてはならない、つまり偶像化の禁止と関係があるかもしれない。

前述のとおり本の全容を覚えていないので、久しぶりに調べてみたら、宗教的・哲学的世界観の相違どころか、0の概念を導入すると、なんと、量子論と一般相対性理論を破壊してしまうと書かれているのだそうだ。
それを解消しようとして編み出されてたのが超ひも理論らしい。
当時、私は宇宙の成り立ちに関心を持っていて、超ひも理論に関する本も読んで何だかよく分からないまま終わった記憶があるが、このせいだったのかもしれない。
ちなみにこの理論は当時でもトンデモ理論扱いされていたが、今でもそんなに立場は変わっていないらしい。

ビッグバン理論についての本も読んで、その後で禅宗の書籍を読んで空について書かれている部分のくだりで、ビッグバン直前、つまり宇宙が誕生する直前の状態と、空の状態のイメージが重なり、この発見に大興奮した。
これは今でも私の空のイメージの原点だ。
ビックバン理論が誤りである可能性はあるが、というか、全ての科学理論は反証可能性がなくてはならないので、いつまで経っても誤りである可能性があるわけだが、宇宙に始まりがあるとすれば、その今まさに始まろうとしている状態、あるいは始まっていない状態が空ではないかという意味だ。

前述した量子論と相対性理論は互いに矛盾するので、現在はこの2つの理論を統合する大統一理論を構築するのが科学界の夢らしいが、0の扱いはどうなっているのだろうか。
もしかしたら0の概念がこの2つの理論を破壊するという情報自体が詳しく確認していないので誤りかもしれないし、もう20年も経っているので問題は解決済みかもしれない。
もう何千年も未解決のままの問題はいろいろあるが。

そういえば相対性理論の父アインシュタイン「神はサイコロを振らない」と量子論の父ボーア「神のなさることをあなたが決めるなかれ」の論争を見ると、この2つの理論は神の存在を前提としても矛盾はないと考えられるため、では神はいないとするとどうなるのか、先ほどの0によって破壊されるという話に多少は信憑性が増すように思える。

0の概念によって、いつか西洋的世界観と東洋的世界観が融合する日がくるかもしれない。

追記

下記の過去記事は、
空が正しいとすれば、この世の始まりに神を設定する必要がなくなるので、そのほうが自由自在になれるはずだが、自分は現時点で愛の概念を重要視してしまっている。
空を支持すれば、愛の概念が消失してしまうので、この世の始まりに神がいたことにしようとしたが、それだといろいろ不都合が…とゴニョゴニョ愚痴っている話である。
私は夫との出会いによって愛の概念を感覚的に支持してしまったので、空の境地に至れないかもしれないという苦悩(言うほど苦しんでない)が表されている。

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