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働いたら負け?

幼いころから働いて金銭を得ることに違和感があった。
労働の対価としてありがたく報酬を受け取っている自分を想像できなかった。

大学を辞めてニートしていた21か2歳の頃、父親の知人の紹介で事前に何の予告もなく初アルバイトをすることになった。
短期バイトで約2か月間、事務の仕事だったが、1か月目で給料を貰って親に見せたとき、母は開口一番こう言った。

何で楽な仕事なのに(障害者の)兄弟よりたくさん貰えるの?

楽? 確かにそうだ、空調の効いた部屋で座って手を動かしているだけで、当時、民間企業の過酷な環境で働いていた兄弟より報酬は多かった。
だが1か月分の小遣いより何倍も多い額のお金を手渡されても、特にこれといった感慨は湧かなかった。
確かに私は楽をするのが好きだ、でもこれが楽だというのなら私は楽などしたくない。
お金のために、生活のために否応なく働いている感覚が嫌なんだ、何ならタダ働きのほうがやる気が出る、同じことでもお金が介在すると途端に嫌になる、この感じは何なんだ?
生きること=生活することで、そのためにお金が必要だとしたら、かつては死にたくなったこともあったが、もうそうでもなかったので、私のこの考えはおかしいということになる。
なのに、この思いが消えないのは私の我儘なんだろうか?

さらに時を経て私の考えは発展していった。

出来るだけ楽してお金が欲しい。
お金が何もしなくても湧いてきたらいいのに。

クズすぎる。どうしてこうなった。

でも、おかしくない?
お金が生きていく上でどうしても必要なら、何でそれを手に入れるために嫌々やったり、際限なく欲望を掻き立てたりするシステムになってんの?
こっちはタダ働きでもいいって言ってんだよ? それとは別に対価なしで生活に必要な分のお金くれてもよくない?
こっちはお金に興味ないんだよ! 何で強制的に関心ひこうとしてくるんだよ!

最近になって、何でかつてこんな考えを抱いたのか分かってきた。
私は資本主義を「すべての価値はお金で換算できるという考え方」と定義していたんだった。
私はこの考え方が気に食わなかった。
でも一人で生きてくか、結婚するか、はっきりと自分の人生の方向性を決めようと動き出したときに、一人分の食い扶持を稼ぐか、必要があったらパートナーと支え合うために働こうと、資本主義の考えをある面では許容して、でも決してお金で換算できない価値があるのを忘れないように、妥協して生きていこうと決めたんだ。

でも本当は全然妥協出来ちゃいなかったんだ、単なる買い物とか、物質的なものにお金を介在させるのには文句はない、だけど働くのは?
働いてお金を得る=自分のリソースを売り渡して代償にお金を得るのは?
自分のリソースは自分の魂に繋がっている。
働いたら負けなんじゃない、自分の魂を売り渡したら負けなんだ。
てか、やっぱりこれって我儘なのかねぇ?

最後に野暮な蛇足ですが、資本主義に完全に同意している人は、働いても魂を売っていません。
器用に妥協している人も同じくです。

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