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いらない子~浦沢直樹「MONSTER」に寄せて

先日、遅ればせながら浦沢直樹氏の名作「MONSTER」を読んだ。
※以下の内容はネタバレ注意。



作中では繰り返し、本当の恐怖、怪物という言葉が出てくる。
断片的に語られるその正体が、最後の最後に明かされる。

それは言うなれば世界に拒絶される、見捨てられる感覚であり、安定した世界の象徴たる存在、つまり母親が突如として怪物に変貌した瞬間に立ち会ってしまったことだ。

その母親の子供がそっくりな双子であったことが事態をさらに複雑にする。
母親は妊娠中に愛する男、双子の父親を敵に殺され、お腹の子たちがその復讐をすることを願う。
しばらく母子で平穏に暮らしていた(と思われる)が、ある日その敵が現れ、とある目的のために双子の片方を渡せと迫る。
子供たちは母に必死にしがみつくが、彼女はしばしの葛藤のすえ、子供の片方を自ら手放してしまう。
恐らく子への愛情と復讐心を天秤にかけ、後者が勝ったのだろう。
彼らは子供の片方を手放す決心をした瞬間の母の姿、怪物が現れる瞬間をまざまざと見てしまった。

子供の視点からすると、
・残されたほうが必要とされた(愛されている)子で、手放されたほうはいらない子なのか
・(母の愛が信じられなくなったために)むしろ復讐のために手放された子のほうが必要とされた子だったのか
・残されたほうは連れていかれたほうの子が失敗したときのためのスペアなのか

これはそっくりの双子だったがゆえに間違えられた可能性も捨てきれないため、残された子にとっても同じことだ。
しかも、そもそも最初から愛はなく、復讐のためだったかもしれないのだ。

僕は君、君は僕
いらない子だったのはどっち?

真実が分からない。
私自身の経験からしても、これは恐ろしいことだ。
私が生まれたのは、両親が愛し合った結果でもなく、何となく流れででもなく、親の不純なある動機の結果だ。
それが私にとっての真実であり、それが真実であると決めてしまえれば、どんなに残酷な真実であろうとも前向きに生きていける余地がある。
生まれた後は割と丁寧に育てられたほうだが、親の思う良い子から外れると叱責されたり、ストレスのはけ口にされたりしたので、条件付きで必要とされる子の扱いだったのははっきりと分かっていた。

作中の双子は違う。
真実をどうとでも解釈できる事実しかなく、そうであるがゆえに、どっちがいらない子か決められるが、決めてしまうとこの世界でたった二人だけの、お互いに唯一分かり合える魂の双子を失ってしまう。

私は幼き日に不安定な世界から自分が作り出した内的世界に逃げ込めたが、この双子の片割れは、ある目的のための実験で、名を与えられず、思い出は奪われ、感情は殺され、それすらも許されない。
かくて怪物から怪物が誕生する。

成長した双子たちの実母は存命であり、作中の最後のほうで主人公に子供たちを愛していたと語るが、それでも救われない。
怪物を見た衝撃からあまりにも遠くに来てしまった。

今、私が母に自分の思いを打ち明けたなら、どんな答えが返ってくるか容易に想像がつく。

あなたを愛していた
良い子でいれば良い結果になり、それで幸せになれると、良かれと思ってやった
私だって辛かったのよ、気持ち分かるでしょ?
ごめんなさい、そこまで考えてなかったの

うん、知ってるよ
だからあなたに私は救えない
私を救えるのは私だけ

母もその母に条件付きで必要とされる子の扱いをされていた。
不安定な世界を直視するのは怖いよね、だから考えたくないんだよね。

作中に一つ、印象的なシーンがあった。
双子の片割れが過去に洗脳教育を受けていた孤児院の元院長が、再び孤児を集めて教育している一コマ。
今度は研究者として昔の実験の失敗を踏まえて、人間の負の側面の影響を受けやすい不安定な人格になるのを防ぐために、子供に愛情をかけて育てているという。
新しい発見だ、とも。
登場人物の一人が言う、それは親が子に向ける、ごく普通の、自然なことでは、と。
しかし元院長は実験だと言い張る。

私は結婚していて選択子なしだが、何年か前まだ子供を持つつもりがあったとき、夫に「自分の思う理想の子育てをしたら我が子がどうなるのか、実験のつもりで育てるのが良いのではないか」と言ったことがある。
その意図するところは、実験のように細心の注意を払って、客観的な視点を常に意識する心の余裕を持つようにしたら良いのではないかということだ。
この元院長の言わんとするところとは違うとは思うが。

作中の双子たちのような強烈な体験をしなくても、親の些細な言動で子供の世界は揺らぐ。
親がそんなに考えずに、小さな過ちを繰り返せば、子供の世界は壊れてしまうかもしれない。
考えないから世代に渡って過ちを繰り返す、だから実験のようなつもりで。

しかし、子育てのような生物のとして自然の営みを熟慮してやらなければならないことこそがおかしいのかもしれない。
自然に生きるということが、何故こんなにも難しくなったのか。

人類はあまりにも遠くに来てしまったのかもしれない。
その行きつく先はどこなのだろうか。

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