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私はどうして私なのか

私は最近、心理機能とMBTI理論に嵌っているが(最近の記事の枕詞)、そもそもこの理論に妥当性はあるのか、心理つまり心のことわりを8つに分類している、それは心が在るということを当然のように前提にしているが、心とはそもそも何なのか…と考えていくうちに、そういえば子供の頃に似たような疑問を抱いたことがあったのを思い出した。

最初にその疑問が浮かんできたのは小学1年生の頃、通学路を覚えるための集団登校が終わり、一人で学校までの道のりを歩いていたときだったと思う。
唐突に私はどうして私なのかという疑問が生じ、次の瞬間にこれを考えている私と「私はどうして私なのか」という疑問それ自体に含まれている「私」は同じものなのか、今、疑問を感じている「私」は一体なにものなのかと考え始めた。

もっと詳しく説明すると、私はどうして私なのかという疑問は、私というものが在ることを前提としている。
何かが在ると認識するということは、その何かを別の何かが認知したと考えられる。
そうなると最初の疑問の中の私そのものと、その疑問を抱いた私は別ものということになるが、さすがに別人とは考えにくい、自分の中の別人格とも考えられない、私そのものは人格といえるが、その疑問を考えているだけの存在は、いわゆる「人格」の特徴を備えていない。
道を歩いている私の後姿を、なにものかである私がやや上空から眺めているビジョンを見た。

とどのつまり、脳が自分の脳自身を認識する不可思議さに打たれたわけだ。
今でも私そのものを私、それを認知する自分自身を自意識とでも名付けても不思議なのは変わっていない。

私はこの話を誰にも話さなかった。
初めて話したのは、ひどく病んで精神科の門を叩いたときだ。
20歳の頃のことだが、他にもいろいろ症状があり、統合失調の気があると診断された。
私は自分の頭がおかしくなっていることを認識しており、どのように他の人とずれているかも分かっているので、対外的な振る舞いはその認識をもとに調整しているため、おかしいところがない。
ただ話を聞くと認知がおかしくなっているのは自覚している通り事実であり、おかしくないように振舞うのに困難を感じているようなので、投薬のために便宜上、統合失調ということにしておくと説明された。
なお処方された薬はほとんど飲まず、実家で療養することになった。

あの当時の記憶は時系列順にはっきりと覚えていないが、22歳の頃には普通にバイトしていたので、ひどい病み状態はそれほど長続きしなかったと思われる。
半ニートになり、おかしくないように振舞うのを諦め、認知のおかしさを調整するのにエネルギーを割けるようにしたのが大きかっただろう。
社会不適合なら、社会のほうを強引に適合させてしまえということである。
社会といっても、家庭というごく狭い社会である。
私の母はMBTIでいうとS型で、N型の私のことは理解できなかったようだが、献身的で私が病んだのは自分が良い家庭を築けなかったせいだと思っていたので優しかった。
父のほうはN型だったが、うるさかった。
自分が(無自覚な)Nなのに社会的にS型の振る舞いを強いられていたため、私の行いが我儘にしか見えなかっただろう。
しかし家庭のことは母に任せっきりで権限がなかったため、ノイズとして無視できた。

もちろん強引に環境を適合させたので、いずれ破綻することは目に見えていた。
また環境を変えるか、自分を環境に合わせるか。
後者は無理が来るのが分かっているので、当然前者だろうが、これ以上今の環境は改善できないので新しいものを手に入れる必要がある。
現代社会は資本主義がかなり進んできたので、何でも売っていて市場は概ね開放的だ。
職場環境も、家庭環境も。
家庭環境のほうが重要なので、まず婚活することにした。
当時はS型、N型の概念を知らなかったが、どうやら自分は少数派に属すらしいのは分かっていた。
ということは、ニッチな需要があるはずだ。
婚活市場は今や巨大化しており、少数派がいくらか混じっているだろう。
多数派が血で血を洗うレッドオーシャンに飛び込まなくとも、成果が上げられるかもしれない。
問題は少数派を見つけられるかだが、カタログのように陳列されている多数派の中の少数派は目立つから心配する必要はない、擬態していなければ。

地方在住の出不精の私は、まずネットで探し始めた。
いた。しかも擬態していない。
これまでの人生で擬態に苦心していた私は、それをしていない意味は分かるつもりだ。
私はそれまでの彼の人生を思い、言い知れぬ悲しみを覚えながらメッセージを送った。
彼がのちの夫になった。

一つ言いたいのは、私はNとSに優劣をつけるつもりはないということだ。
「私はどうして私なのか」というテーマと、例えば「出かけるときの服は何を着ていくか」は、私にとって同列のことだ。
前者がより高尚だとも思っていないし、重要度も出かける用事があるときはどう考えても後者のほうが高いだろう。
熟考の結果、ありきたりのシャツとチノパンという特に何も考えていなさそうな格好になったとしてもだ。

もしかしたら、私が幼き日に考えた疑問は珍しいものではなかったのかもしれない。
忘れているだけで大抵の子供は似たようなことを考えていたことがあったのかもしれない。

そういえば母も言っていた。
私を躾けるとき、これだけ押さえておけば多少ほかの行動がはみ出していても許されると。
例えば食べ物の好き嫌いを外で出さないとか。
単に私を納得させるための方便だったのかもしれないが、もしかして母もそうだったのだろうか。
さすがに良い学校に行って良い会社に就職して(あくまで母が理解しやすい)良い相手と結婚するというポイントさえ押さえておけば、という価値観はいただけないが。
そこさえ押さえておけばどころか、人生全てが侵食されるだろう。

母はどんな子供だったのだろう。
聞けば溌溂としたお転婆な子だったらしい。
今の母は本来の母なのか、それとも侵食された結果なのか。
かすかな哀惜の情で振り返るとするなら、私は母のことを自分を知るための分析の素材としてしか関心がないことを、そんな関係にしかならなかったことを、どこか芯から納得していないような気がするということだ。


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