ひとつの工芸品
祖父が旅立ってしまった。
四年前、祖母が先立ってからきっと長くはないだろうと覚悟というか『認識』はしていた。
祖母が亡くなってすぐ病気になり、徐々に悪化して入院し、最近は施設に入っていたと聞いた。
時間が合えばお見舞に行けたらとずっと思っていたけれど、年に一度、お盆の数日しか時間を取れない私には難しいことで、そのまま三度のチャンスを逃してしまった。
平常時だったらすぐに帰省して葬儀に参列し、ぼろぼろ泣いたり久しぶりに会う親戚やいとこと新鮮な会話を楽しんだことだろう。
祖母の葬儀で私は有り得ないほど泣いた。
葬儀中に人目を憚らず泣いていたのは私だけだった。
どうしても止まらない涙を拭い続けながら冷静な自分が『今ならどこかの国の葬儀屋のサクラになれるんじゃないか』と滑稽さを笑っていた。
隣に座る母はもらい泣きしていたので少なからず影響力がありそうだ。
祖母は気が強く、誰にでも優しいわけではなかった。
私は兄妹の中で父に顔が似ているというだけで恩恵を受けたと思う。
子供の頃はそれが当たり前で、私は冷遇されている立場のひとたちのことは目にも入っていなかった。
優越も憐れみもなくただ『そういうもの』だと思っていた。
ある程度世のことが分かってきたとき、祖母に感謝の気持ちを抱くと同時に、私はつまらない理由で人を選り分けたくないと考えるようになった。
そして祖母を取り巻く大人を見て、ひとには表も裏もあるのだということを知った。
祖母は敬愛するおばあちゃんであり恩師であり反面教師にもなった。
本当にいろんなことを教わり、私の人格の一部に影響していると思う。
祖母は自分のことをよくわかっていて亡くなる前にきっちり終活を済ませていた。
戒名までセルフプロデュースしていた。
祖父はそんな祖母とは対称的に陽気でおちゃめで誰にでも自然に優しかった。
小学生のとき夏休みに遊びに行っていたときのこと。
田舎には子供のための気の利いたお菓子はなかなかなく、代わりにスナックパンを食べさせてくれてご飯が食べられなくなるという事態が頻発した。
私はもともと食が細く、田舎のご飯もあまり口に合わず徐々に痩せていったらしい。
私が痩けてきたから予定より早く実家へ帰すということもあった。
遠い記憶の中、祖父の作る煮物が美味しかったことを覚えている。
お正月には祖母と二人三脚で昔ながらの臼と杵でお餅をついてくれた。
その様子は子供には昔話のフィクションのシーンを実演するかのようなアツいショーだった。
二人は見事なシンクロ・リズムで軽快につき終えストーブの上で焼いてくれ、きな粉をつけて頬張るととても柔らかくて美味しかった。
今のところあれより美味しいお餅には出会っていない。
祖母と祖父はとてもぴったりお似合いなカップルだ。
祖父は甘えん坊で祖母はしゃっきりしている。
祖父が緑内障の手術をしにきたとき私も付き添いに行ったが、田舎から来た祖父母はふたりで手を繋いで歩いていた。
目の見えにくい祖父への配慮だと思うが、その背中を見たときまるでひとつの工芸品の人形のようにしっくり見えたので、きっと日常的に祖母がリードして祖父がついていく形なんだろうなと感じた。
思わず顔がほころぶほど胸が暖かくなり、いつかこんなおじいちゃんおばあちゃんになりたいと憧れの対象になった。
私の祖父との最後の思い出は祖母の葬式でのことだ。
緑内障がすっかり治った目をきらきらさせながら、帰り際の私の手を両手で握ってぶんぶん振り続け、無言のままニコニコしてなかなか手を離そうとしなかった。
私も笑ってまた来るからねと言ったら、母がおじいちゃんは耳が遠いからわからないかもと言ったけど、あのいたずらっぽい笑顔は完全に確信犯だと思う。
よくボケたふりをしてボケるのだ。
愛嬌があって賢いユーモアを体現するおじいちゃんが大好きだ。
もう一度あの笑顔を見たかった。
けれど私にはあの笑顔が、瞳に頭に心に焼き付いている。
きっと今ごろおばあちゃんのところで、なんでよりによってこんなタイミングで来たんだと半ば叱られるように言われては、はにかんでいることだろう。
おばあちゃんはやれやれという調子で薬指に金色が光る手を差し出し、ふたりでゆっくりと歩き出す。
ふたりの世界でいつまでも幸せでありますように。
いつかまた、笑顔で会おうね。
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