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大奥(PTA) 第三十一話 【第六章 提灯】

【第六章 提灯】


<窺書(アンケート)>

 その頃、安子様と常磐井ときわい様とおりんさんは、津軽屋つがるや西の蔵での大奥(PTA)御吟味方ごぎんみがた(選出委員)のご作業を終え、新川沿いの夜道を提灯ちょうちん片手に家路に就いておられました。

「しかしまあ、立候補出来ない人は、必ず誰かを御推挙ごすいきょする事、と窺書うかがいしょ(アンケート)に書かれて居るとは言え、みんな無責任に書いて来るもんだねえ」
 道すがら、おりんさんがこう愚痴り始めました。

みんな其々それぞれ大なり小なり、大奥取締方おおおくとりしまりがた(PTA本部役員)を引き受けられない退きならないわけが有るんだろうけど、ある方なんざ、上のお子が御病気で世話に掛かりっきりだってのに、寺子屋のいろは・・・の御名簿順での一番だったばっかりに、ご事情を知らねえ人達が、こぞってその人を御推挙しちまってるんだから、お気の毒ったらありゃしない」

「まあねえ。誰が誰を御推挙したか、見てしまったのもどうにも心苦しかった。この秘密は、我々の心の内だけに仕舞って置きませんとね」
 と、常磐井ときわい様が仰いました。

「まあにもかくにも、無事本日の御作業が終わって何よりですわ」
 安子様がそう仰った頃合いには、御三人おさんにんは寺子屋近くの橋のたもとの分かれ道まで来ていらっしゃいました。

 橋のたもと常磐井ときわい様とおりんさんと別れた安子様は、川沿いの小径こみちを六町(約600m)ほど進んだ次の橋を、左に曲がって少し行った所にある御自宅へと、一人早足はやあしを進めておられました。

「ふうう、流石にここのつきともなれば、早足はやあしは息が上がりますね。でも、太郎と花子が心配です。急がなくては」

 安子様は左手に提灯ちょうちんを持ち、右手で御自分の大きなお腹を優しくさすると、注意深く提灯ちょうちんで御足元を照らしながら更に歩みを進められ、次の橋まであと二丁(約200m)の所まで参りました。

 その時に御座います。
「何でしょう、このきな臭い匂いは……」

 安子様は、転ぶまいと御足元を照らして居た提灯ちょうちんを、御自分の目の高さまでかかげ持つと、ご自宅の屋敷のある方角に、細く一本、煙の線が立ち上って居るのを見て取られたので御座います。

<煙>

「あれ、何かきな臭く無いかい?」

 おりんさんと常磐井ときわい様は御自宅が近いため、安子様と別れた後、同じ方向に向かって歩いていらっしゃったのですが、川を少し下った三丁目の方角から、何やら焦げ臭い様な匂いが流れて参りましたので、提灯ちょうちんをかざして目視された所、やはり煙の筋が一本立ち上っておりました。

「三丁目……。安子様のご自宅の方角。安子様は、身重みおもの安子様は大丈夫なのでしょうか?」
 常磐井ときわい様がこう仰るとおりんさんは、
「そうだよ、こうしちゃあ居られない。あたしは急ぎ二丁目の火の見櫓みやぐらに行って火消しの兄貴に伝えるから、あんた、安子さんの所へ行って様子を見て来なよ」

「そ、その通りね。分かりました、急ぎましょう」

 常磐井ときわい様はそう仰ると、おりんさんと別れ、取るものも取り敢えず、暗闇の中一人、三丁目の安子様のご自宅の方角に向かって走り始めたので御座います。

<手燭>

 時を、そのほんの少し前に戻しましょう。

 お襁褓むつを嫌がり、どうしても御自分でかわやに行くとむずかる花子様を、お庭を抜けて土間どまの先に有るかわやに連れて行こうと、太郎君たろうぎみは先程手に取った手燭てしょくの灯りを頼りに縁側まで行き、手燭てしょくを縁側に置いて、赤い鼻緒はなおの小さなお勝手履かってばきの草履ぞうりを、数え三つ(2歳)の花子様にお履かせになり、御自分はもう一回り大きい子供用の青い鼻緒はなおの草履をお履きになりました。

 幸い今宵は秋の満月の夜、夜も更けて高く上がったお月様が、お庭に自然に生えたものを安子様が手を入れて残して有る、すすき月見草つきみそうの花をぼんやりと照らし出し、りーんりーんという鈴虫の声も聞こえておりました。

 太郎君たろうぎみは妹の花子様の御手をぎゅっと右手で握りしめると、左手に蝋燭ろうそくの灯りの点いた手燭てしょくを持ち、これまで経験した事の無い、夜の庭に子供たち二人だけで出かけるという大きな不安が有る一方、妹は自分が守るんだ、と言う少年らしい胸が躍るような冒険の気分を、ほんの少しだけ感じていたので御座います。

「はやく、はやくう! 出ちゃうよお」
 花子様は早くかわやに行きたくて、握った太郎君たろうぎみの右腕を引っ張ってお庭を突き進もうとなさいますが、太郎君たろうぎみは左手に持った手燭てしょく蝋燭ろうそくが倒れてはいけないので、そんなに早くは進めません。

「落ち着いて、ゆっくりゆっくりお歩きよ」
 太郎君たろうぎみはそう言って花子様をたしなめると、手燭てしょくを前にかざし、
「ほら、見てごらん? あそこの手水鉢ちょうずばちの水に、お月様がまん丸に映って居るよ」
 と、花子様のお気がれる様な話題を持ち出しました。

「ほんとだあ。お月様のうさぎさんまでお湯に入ってる」
 と仰って、花子様は少し御機嫌を直されました。

 お二人が更に少しお庭を進みますと、土間どまの外のひさしの下に、炭をおこすための焚き付け用のまきが積んで有り、かわやはそこを抜けて直ぐの石段を三段上った所に御座いました。

 太郎君たろうぎみと花子様はようやっとかわやに辿り着き、花子様が用を足して居る間、太郎君たろうぎみは火のともって居る手燭てしょくを、三段ある石段の一番上の段に置いて、ご自身は石段に腰を降ろして待っていらっしゃいました。

 太郎君たろうぎみが満月の映し出された手水鉢ちょうずばちをぼおっと眺めておりますと、男子おのこごの大好きな、昼間ならちょっと見ない立派な大きさの一匹の鍬形虫くわがたむしが、何処からか這い上って来てその手水鉢ちょうずばちの淵に止まると、少年の目は一瞬綺羅きらと輝き、その虫に釘付けになりました。

 このように動かないのなら、今ならこの鍬形くわがたを簡単に捉えられるかも、と言う誘惑が一瞬太郎君たろうぎみの脳裏をよぎりましたが、いいや、今は虫など採って居る場合では無い、妹を無事に寝室まで送り届けなくては、とかぶりを振って思い直されました。

 すると、
「お兄たま、出来た! 花ちゃん一人で出来たよ!」
 花子様が用を足して嬉しそうにかわやから出て来ますと、
「良かったなあ、花ちゃん」
 太郎君たろうぎみはそう仰ると、花子様の着物の裾が乱れて居たので、お手を伸ばして直されようとなさいました。

 その時に御座います。

「花ちゃん、お着物も自分で直せるもん!」
 花子様はそう言ってむずかると、手足をじたばたさせてあらがい、花子様の御御足おみあしが、裾を直そうと伸ばしていた太郎君たろうぎみの腕に強く当たり、その肘が石段の上に置いてあった手燭てしょくにぶつかったので御座います。

「あっ!」

#創作大賞2024 #ホラー小説部門


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