![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/147017171/rectangle_large_type_2_014d7bd102bc2b075a8bb35db65d8bbe.png?width=1200)
大奥(PTA) 第三十一話 【第六章 提灯】
【第六章 提灯】
<窺書(アンケート)>
その頃、安子様と常磐井様とおりんさんは、津軽屋西の蔵での大奥(PTA)御吟味方(選出委員)のご作業を終え、新川沿いの夜道を提灯片手に家路に就いておられました。
「しかしまあ、立候補出来ない人は、必ず誰かを御推挙する事、と窺書(アンケート)に書かれて居るとは言え、皆無責任に書いて来るもんだねえ」
道すがら、おりんさんがこう愚痴り始めました。
「皆其々大なり小なり、大奥取締方(PTA本部役員)を引き受けられない退っ引きならない訳が有るんだろうけど、ある方なんざ、上のお子が御病気で世話に掛かりっきりだってのに、寺子屋のいろはの御名簿順でいの一番だったばっかりに、ご事情を知らねえ人達が、こぞってその人を御推挙しちまってるんだから、お気の毒ったらありゃしない」
「まあねえ。誰が誰を御推挙したか、見てしまったのもどうにも心苦しかった。この秘密は、我々の心の内だけに仕舞って置きませんとね」
と、常磐井様が仰いました。
「まあ兎にも角にも、無事本日の御作業が終わって何よりですわ」
安子様がそう仰った頃合いには、御三人は寺子屋近くの橋の袂の分かれ道まで来ていらっしゃいました。
橋の袂で常磐井様とおりんさんと別れた安子様は、川沿いの小径を六町(約600m)ほど進んだ次の橋を、左に曲がって少し行った所にある御自宅へと、一人早足で歩を進めておられました。
「ふうう、流石に九つ月ともなれば、早足は息が上がりますね。でも、太郎と花子が心配です。急がなくては」
安子様は左手に提灯を持ち、右手で御自分の大きなお腹を優しく摩ると、注意深く提灯で御足元を照らしながら更に歩みを進められ、次の橋まであと二丁(約200m)の所まで参りました。
その時に御座います。
「何でしょう、このきな臭い匂いは……」
安子様は、転ぶまいと御足元を照らして居た提灯を、御自分の目の高さまで掲げ持つと、ご自宅の屋敷のある方角に、細く一本、煙の線が立ち上って居るのを見て取られたので御座います。
<煙>
「あれ、何かきな臭く無いかい?」
おりんさんと常磐井様は御自宅が近いため、安子様と別れた後、同じ方向に向かって歩いていらっしゃったのですが、川を少し下った三丁目の方角から、何やら焦げ臭い様な匂いが流れて参りましたので、提灯をかざして目視された所、やはり煙の筋が一本立ち上っておりました。
「三丁目……。安子様のご自宅の方角。安子様は、身重の安子様は大丈夫なのでしょうか?」
常磐井様がこう仰るとおりんさんは、
「そうだよ、こうしちゃあ居られない。あたしは急ぎ二丁目の火の見櫓に行って火消しの兄貴に伝えるから、あんた、安子さんの所へ行って様子を見て来なよ」
「そ、その通りね。分かりました、急ぎましょう」
常磐井様はそう仰ると、おりんさんと別れ、取るものも取り敢えず、暗闇の中一人、三丁目の安子様のご自宅の方角に向かって走り始めたので御座います。
<手燭>
時を、そのほんの少し前に戻しましょう。
お襁褓を嫌がり、どうしても御自分で厠に行くとむずかる花子様を、お庭を抜けて土間の先に有る厠に連れて行こうと、太郎君は先程手に取った手燭の灯りを頼りに縁側まで行き、手燭を縁側に置いて、赤い鼻緒の小さなお勝手履きの草履を、数え三つ(2歳)の花子様にお履かせになり、御自分はもう一回り大きい子供用の青い鼻緒の草履をお履きになりました。
幸い今宵は秋の満月の夜、夜も更けて高く上がったお月様が、お庭に自然に生えたものを安子様が手を入れて残して有る、薄や月見草の花をぼんやりと照らし出し、りーんりーんという鈴虫の声も聞こえておりました。
太郎君は妹の花子様の御手をぎゅっと右手で握りしめると、左手に蝋燭の灯りの点いた手燭を持ち、これまで経験した事の無い、夜の庭に子供たち二人だけで出かけるという大きな不安が有る一方、妹は自分が守るんだ、と言う少年らしい胸が躍るような冒険の気分を、ほんの少しだけ感じていたので御座います。
「はやく、はやくう! 出ちゃうよお」
花子様は早く厠に行きたくて、握った太郎君の右腕を引っ張ってお庭を突き進もうとなさいますが、太郎君は左手に持った手燭の蝋燭が倒れてはいけないので、そんなに早くは進めません。
「落ち着いて、ゆっくりゆっくりお歩きよ」
太郎君はそう言って花子様を窘めると、手燭を前にかざし、
「ほら、見てごらん? あそこの手水鉢の水に、お月様がまん丸に映って居るよ」
と、花子様のお気が逸れる様な話題を持ち出しました。
「ほんとだあ。お月様のうさぎさんまでお湯に入ってる」
と仰って、花子様は少し御機嫌を直されました。
お二人が更に少しお庭を進みますと、土間の外の廂の下に、炭を熾すための焚き付け用の薪が積んで有り、厠はそこを抜けて直ぐの石段を三段上った所に御座いました。
太郎君と花子様はようやっと厠に辿り着き、花子様が用を足して居る間、太郎君は火の灯って居る手燭を、三段ある石段の一番上の段に置いて、ご自身は石段に腰を降ろして待っていらっしゃいました。
太郎君が満月の映し出された手水鉢をぼおっと眺めておりますと、男子の大好きな、昼間ならちょっと見ない立派な大きさの一匹の鍬形虫が、何処からか這い上って来てその手水鉢の淵に止まると、少年の目は一瞬綺羅と輝き、その虫に釘付けになりました。
このように動かないのなら、今ならこの鍬形を簡単に捉えられるかも、と言う誘惑が一瞬太郎君の脳裏を過りましたが、いいや、今は虫など採って居る場合では無い、妹を無事に寝室まで送り届けなくては、とかぶりを振って思い直されました。
すると、
「お兄たま、出来た! 花ちゃん一人で出来たよ!」
花子様が用を足して嬉しそうに厠から出て来ますと、
「良かったなあ、花ちゃん」
太郎君はそう仰ると、花子様の着物の裾が乱れて居たので、お手を伸ばして直されようとなさいました。
その時に御座います。
「花ちゃん、お着物も自分で直せるもん!」
花子様はそう言ってむずかると、手足をじたばたさせて抗い、花子様の御御足が、裾を直そうと伸ばしていた太郎君の腕に強く当たり、その肘が石段の上に置いてあった手燭にぶつかったので御座います。
「あっ!」
![](https://assets.st-note.com/img/1720756553177-NIFXzN8K6z.jpg?width=1200)
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?