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大奥(PTA) 第三十九話 【第八章 名前】
【第八章 名前】
<宗家>
「なに! 産まれた? 男の子とな?」
奥方様は大声を出され、用意して置いた風呂敷包みを掴まれると、小脇には押入れの奥から探し出して来られた、何やら筒のような物をお抱えになり、玄関を飛び出さんとして居られました。
「あの、ですから、奥方様、安子様は産後の御肥立ちが……」
と初島様が仰ってお止めしようとなさったものの、
「牧野家の次男が産まれたのです。駆け付けたとて何が悪いのです! 」
奥方様はこう仰り、初島様のご静止に耳を傾けようともなさりません。
そうこうして居る内に、この騒ぎで眠りから覚めてしまった花子様が、寝所で大きな声でお泣きになるのが聞こえて参りましたので、初島様はそちらの御様子も気にかけねばならず、その隙に奥方様とご夫君は、安子様の居られる御自宅の方へと、駆け出して行って仕舞われました。
その時分、安子様はお産の際に強いはやめ薬(陣痛促進剤)を飲まれたご影響でしょうか、激しい脱力感と気分の落ち込みに見舞われながらも、産婆様から手渡された、小さく柔らかい我が子を初めて腕に抱き、そっとご自分の乳にお近づけになると、赤子は、拳のような小さなお顔の、一体何処にそのような力が備わって居るのかと不思議に思われるほどの逞しい力で、安子様の乳に吸い付いたので御座います。
赤子は、もう充分に乳を飲んだのか、乳房から手を離し、満ち足りたお顔で、にっこりと安子様のお顔を見上げたのでした。
ああ、何という愛らしい笑顔、小さい小さいお手々。優や、この手でしっかりと幸せを掴み取るのですよ、安子様は心の中でそう祈らずには居られませんでした。
その時に御座います。
がらがらと産屋の木戸を開けて、御夫君と、何やら筒の様な物を大事そうに抱えた義母の奥方様が、どやどやと産屋に入って来られたので御座います。
「まあ、何と愛らしい男の子でしょう。お昼に産気付いたと聞きましたから、明日になるかと思って居たら、まあ早かった事。お産が軽くて良かったわねえ」
奥方様はそう仰ると、安子様の腕から、赤子を奪い取る様に引き離すと、御自分の腕に抱き、ばあ、ばあと満足そうに、首の座らぬ産まれたての赤子の体を揺らしたので御座います。
「それにまあ、何と筋の通ったお鼻だこと。この整ったお顔立ちは、牧野家の血筋に違い御座いません。安子さん、牧野家の次男を上げてくれて、本当に有難う」
赤ん坊を片時も手放さない勢いの奥方様は、そのように捲し立てられました。
安子様はこう思われました。お義母様は今回のお産が軽かったと仰る。確かに陣痛が始まってからの時間はそれ程長く掛かって居ないかも知れませぬが、はやめ薬(陣痛促進剤)を使って、それはそれは気絶しそうなほど激しいお産で、産み終えた今もなお、気が伏せったり涙が止まらなかったりすると言うのに。
お産が軽いとか軽く無いなどとは、その試練に耐えた本人以外の者が軽く口に出せる事では有るまいに。しかも私が、妊娠初期の苦しい悪阻に耐え、家事育児、大奥(PTA)のお勤めもこなしながら、十月十日の長い身重の期間を経て、遂には辛く苦しいお産を乗り越える事が出来たのは、ひとえにこのお子、優が愛おしかったからに相違なく、別に牧野家の次男を上げる為では無かったと。
安子様は普段は、言われた事を一つ一つこの様に気なさったりせぬ大らかなご気性でいらっしゃるのに、産後の気鬱も伴ってか、ここへいらっしゃってからの奥方様の無神経な御発言には、何とも言えぬご不快な感覚をお覚えになったので御座います。
ただまあ、このお方は大切なお子の御祖母君で有られるのに違いなく、安子様は不快な御表情を極力表面にお出しにならぬ様お気を取り直して、話題をお子の御名のお話しに向けられました。
「ところでお義母様、このお子のお名前の事ですが」
安子様は、先日には御夫君の了承も取れていらっしゃる故、「優」の字を使い、「優次郎」と名付ける旨、奥方様に申し上げて貰おうと、御夫君を見上げる様に目配せなさいました。
「そうだ、お袋様、この御子の名は……」
御夫君がそう切り出された瞬間、
「そうそう、そのことに御座います」
奥方様は、その御言葉を遮る様にこう仰るやいなや、先程から大切そうにお手に持っていらっしゃった筒に収まった掛軸をいそいそと取り出し、恭しくお広げになったので御座います。
「お袋様、このお子は安子が優次郎と名付けたいと」
奥方様は、息子である安子様のご夫君がそう仰りかけたのを遮られ、
「ほうら、この掛軸をご覧なさい」
と仰ると、その掛軸の皺を丁寧に摩って伸ばしながら、安子様とご夫君のお顔の前にお掲げになられました。
『宗次郎』
その掛軸には、男文字らしい太く力強い筆文字で、こう書かれておりました。
安子様とご夫君は、奥方様の有無を言わせぬ勢いに気押されながらその文字をご覧になっておられると、
「この子の御名は『宗次郎』と名付けます。この名はね、私の亡き夫、そなたのお父上が一昨年病床で、今後もしも、もう一人男のお子を授かったなら、この名を必ず付ける様にと、ご遺言なさったのです。
牧野の宗家の次男、宗次郎。これほどこの子に相応しい御名が御座いましょうか?」
安子様は奥方様のこの、一部の隙も与えない様な断定的な物言いに、目の前が真っ暗になる様な思いで御座いましたが、いいえ、まだ希望は有る、「優」と言う字を使う事、夫も同意してくれていたではないか、そうだ、夫がきっとお義母様を御説得なさり、『優次郎』と名付けさせて頂ける筈、そう思って一縷の望みを託し、ご夫君のお顔を見上げられたので御座います。
<片乳>
「宗次郎……、か。良い名では無いかな、なあ安子」
ご夫君はそう仰いました。
「ちょ、あなた、この子は……」
安子様が怒りの籠った眼差しでこう口を開かれましたが、とにかくこの場を丸く収めたいだけのご夫君は、物言いたげな安子様の肩を、御手でぐっとお押さえになりました。
「まあ、素晴らしい。この名ならお父様を始め、御先祖様に堂々と顔向け出来ます。宗次郎、宗ちゃんや。まあ、可愛らしい子だねえ」
奥方様は、安子様のお産直後の母体に触る様な甲高い声でこう捲し立て、
「ああ、こうしては居られませんわ。早速、御仏壇にこの掛軸を持って御報告しなければなりませんね」
こう仰って、名前の書かれた掛軸を小脇に抱え、意気揚々とご近所にある御自宅へ向かって飛び出して行かれました。
安子様はその奥方様の浮かれた足取りを呆然と見送ると、産屋には御夫婦と赤子だけが残されました。
「あなた、非道い。私がどれほど『優』の字を使いたかったか、ご存知だった筈でしょう、それなのに……」
名を奪われた安子様の目からは、遂にはらはらと、涙の粒が落ちて参りました。
「安子、いいから泣くな。もう決まった事だ。あのお袋は言い出したら聞かないんだから。名ぐらい何だって良いだろう」
ご夫君は、母屋で休憩していらっしゃる産婆様に謝礼を渡すと仰って、夫婦で何の話し合いも無いまま、そそくさと産屋を後にされました。
残された安子様は、むずかる宗次郎様に片乳をお預けになりながら、ただ呆然と、この子を優、と呼んで過ごした長い日々を思い返されておりました。
安子様は、お産の直後から体の御不調を感じてはいらっしゃったものの、先ほど、名を奪われた時に涙をお流しになったのをきっかけに、その後も滂沱の涙が止まらず、御自分でもどうする事も出来ないほどに、お気持ちが塞ぎ込んで仕舞われたので御座います。
結局、御先祖様への御報告のため一旦御自宅に戻られた奥方様は、ご報告を終えるやいなや、まっしぐらに産屋に戻って参られ、その後の七日間ずっと、眠らぬ様に安子様を見張っていらっしゃいましたので、安子様は産後の疲れ切ったお体を労わる事もままならず、言葉も稀にしかお発しにならず、ただ鬱々としたお気持ちのまま、時折、宗次郎様が欲しがるままに乳を与えるのみで、表情も無くお過ごしになられたので御座いました。
次章へ続く
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