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大奥(PTA) 第三十八話 【第八章 名前】
【第八章 名前】
<はやめ薬>
「お前さん、このお方が破水したのはいつの時分だったかえ?」
産婆様は、お子を産んだことのある恰幅の良いご婦人にお尋ねになられました。
「確か昼八ツ(午後2時)過ぎ頃だった様な」
とそのご婦人がお答え申し上げますと、
「そうさのう、子宮口が開く前に破水をばしたなら、遅くとも十二刻(約24時間)経たぬうちにお子を産み落とさねば、雑菌が入って、母子共に危険になるでのう。今は暮六ツ(午後6時)か。あと一刻(2時間)ほど待って見る事に致しましょう」
産婆様はこのように仰いました。
そうこうして居る間に、日もとっぷりと暮れ、安子様は一向に間隔が縮まらない陣痛に耐えながら、筵の上で青ざめて、今にも気を失いそうな御表情でぐったりとされておられました。
そこへ、
「安子どうした? まだ生まれないのか? この産婆、本当に大丈夫なのか?」
と大声を出しながら、ご夫君が表(会社)よりお戻りになられ、帰って来たそのままの恰好で、産屋に入って来られました。
産婆様は、鋭い目でぎろりと一瞥、ご夫君を睨みつけなさると、こう仰いました。
「こら! 外から帰ったままの格好でお入りになるでない。お産はおなごの命懸けの闘いなのじゃ。男に出来る事など何も無いわ。はよ出て行きい!」
ご夫君は産婆様の勢いに気押されて、すごすごと出て行かれました。
それから一刻(約2時間)ほど過ぎ、宵五ツ(午後8時)の鐘が鳴るのをお聞き届けになられると、産婆様は安子様を触診なさり、
「ああ、子宮口がまだ一寸半(約5cm)ほどしか開いて居らん……。このままでは危ない。このはやめ薬(陣痛促進剤)を使うしか有るまい。しかし、なにぶん強い薬だ、急に激しい陣痛が起こるやもしれん。安子さん、耐えられるかね? 決して気を失ってはいけないよ」
と、安子様の目を見てこう仰いました。
安子様は、只今また来た激しい陣痛の波に顔を顰めながらも、
「先生、分かりました。この子が無事に産まれて来るならば、私はどんな痛みにも耐えましょう」
産婆様は意を決して、はやめ薬(陣痛促進剤)の包みを開いて安子様のお口に運ばれ、お水を飲ませたので御座います。
はやめ薬(陣痛促進剤)をお飲みになると、その効果は覿面に現れて、安子様の陣痛の間隔は急激に狭まって参りました。
ただ、はやめ薬(陣痛促進剤)を使わずにお産みになった先の二度のお産に比べ、血の道(ホルモンバランス)の変化が余りにも乱高下したため、安子様は陣痛が来る度にのけぞり、いつもは大変穏やかな御気質でいらっしゃるこのお方が、般若の面の様なお顔で歯を食い縛り、上から垂れて居る力綱を強く握り締め、それまで経験した事の無い壮絶な痛みに耐えておいででした。
<業火>
決して気絶してはいけない、そう産婆様は仰いましたが、この業火の様な痛みを、正気のまま耐えられる者など、この世に居るで有ろうか? お子を産むための苦しみで有るとは言え、何故おなごはこの様な痛みに耐えねばならないのか? 安子様は、あまりの痛みに心折れそうになっておられました。
永遠に続くかと思われた激しい陣痛が、ようやっと小休止した時、安子様はふと、床の盆の上に置かれたきょろきょろと愛らしい目をした、あのすすきみみずくに目をお止めになったので御座います。
嗚呼、そうだ。この常磐井様に頂いた愛らしいすすきみみずく。あの方々の優しさのお陰で、私とこの子はあの小火騒ぎの一夜を乗り切ったのだった。あの時、儚く事切れるかと思ったこのお腹の子の命、今も私の中にこうしてしっかりと息づいて、自分の力でこの世に生まれ出でようとしている。ここで今、私がへこたれて居てどうする、安子様はその様にご自分を励まされました。
その時に御座います。
「ようし、あんた、その細い体でようここまで耐えたな。
次じゃ。次の波が来たら、思い切りいきむが良い」
産婆様がそのように仰いました。
嗚呼、産まれる。やっと、ようやっと会える。優、優、早くお前に会いたい。
安子様が心の中で、お腹の子にその名で呼びかけると、とうとう、これまでで一番大きな陣痛の波が、安子様の華奢な体を飲み込んで行ったので御座います。
その頃、安子様の義母で有られる奥方様のお屋敷では、赤子の御誕生をお心待ちにしていらっしゃる奥方様が、夜も更けたけれども興奮してお眠りになる事が出来ず、何やらごそごそと、押入れやら天袋などを探したり、荷物を纏めたりしていらっしゃいました。
御女中の初島様は以前安子様より、奥方様は迷信深く、産まれたら七日間、産婦を寝かせてくださらぬ故、ぜひ落ち着いてから訪ねて頂くようにとお願いされておりましたので、このように奥方様をお嗜めになられました。
「奥方様、安子様は産後の御肥立ちがあまり宜しくない性質と伺っております。それ故、お子が御産まれになりましても、直ぐという事では無く、少し落ち着きましてから、皆様に御披露目を致したいと仰って居られまして……」
真剣にそうお話しなさる初島様のそのお言葉を、奥方様は聞いて居るのか居られぬのか、只々そわそわと押入れを開け閉めなさったり、そこら中を歩き回ったりしていらっしゃいました。
その時に御座います。安子様のご夫君が玄関に駆け込んで来られ、こうお叫びになられました。
「産まれた! 産まれたぞ! 元気な男児、男の子が産まれた!」
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