大奥(PTA) 第三十三話 【第七章 試練】
【第七章 試練】
火を出してしまってから消えたこの瞬間まで、自責の念と不安感で押しつぶされそうになっていた太郎君は、身重のお母君がその場に倒れ込んでしまったのをご覧になり、普段はとてもしっかりとした七つの男子であるのに、この時ばかりは両目からぽろぽろと涙をお流しになり、力無くその場にへたり込んで仕舞われました。
その時に御座います。
「牧野様? 牧野安子様、お邪魔致しますよ?」
太郎君の耳に、走って来られたのか息を切らしたどなたか大人のお声が飛び込んで参りました。
「太郎君、太郎君ではないですか? 大丈夫? 花ちゃんは? 花ちゃんはどうして居るの?」
三丁目の方角に煙が上るのをご覧になり、急ぎ駆け付けて来て下さった常磐井様が、太郎君に矢継ぎ早にお尋ねになりました。その時太郎君は呆然自失となっておいででしたのでお声が出ず、ただ安子様がお倒れになって居る方向を、涙でいっぱいになった瞳でお示しになるだけで御座いました。
常磐井様は、提灯の灯りで太郎君の視線の先を照らし出されました。そこには、青白いお顔をされ、右手でお腹のお子を庇うような姿勢で倒れ込んでいらっしゃる安子様のお姿が映し出されたので御座います。
「安子様! 安子様!」
突然の事に動揺はしたものの、ご職業が看病中間(看護師)でいらっしゃる常盤井様は、まず安子様の額に触り体温を確かめると、安子様の腕を取って脈をご覧になられました。
「これは……」
常盤井様は一瞬深刻そうに眉を顰められると、 このように呟かれました。
「こんな時間に診て下さる女科(婦人科)など、この辺りに有るでしょうか……」
常盤井様の険しい表情をご覧になった太郎君が、涙で潤んだ瞳で縋るようにじっと常盤井様を見つめております。
「うちの医院は稚児医者(小児科)で、女科(婦人科)ではないけれど……、この御様子だと一旦うちへ連れて行くしかなさそうですね」
常盤井様はそう呟くと、九つ月の身重でお体が大分重くなられた安子様を、ご自身の背中におぶって、御実家が営む常盤井醫院に運ぼうとお思いになり、身に着けておられた道行(コート)をお脱ぎになられ、中に着ていた単衣のお袖を括られました。
<火消>
その時に御座います。
「安子さん、安子さんは居るかい? 火の見櫓で見張っていた若い衆の話じゃあ、あんたの家の方角に、ほんの小さい小火が有ったって言うじゃあないか。そうだろ? あんちゃん」
常盤井様と二手に分かれ、一旦二丁目の自身番屋に行ってから、安子様のお屋敷まで駆けつけて来たおりんさんが、一緒に来た、髪は火消らしい奴銀杏に結い、角十字つなぎの半纏を身にまとい、何人かの男衆まで引き連れた大柄な男に向かって、こう話しかけられたので御座います。
「火はどうした? 全部消えたかい?」
鼻筋がぴんと通って、目元が切れ上がって涼しげなお顔立ち、歌舞伎役者かと見まごうばかりの色男が、半纏を腕捲りしながらこう仰ると、頼もしい腕の筋肉の形が、提灯の明かりの作る陰からもくっきりと見えるようでございました。
おりんさんの兄君でいらっしゃると組の若頭 辰五郎様が、先に現場に到着していらっしゃった常盤井様にこうお尋ねになると、
「はい、火の方は大方消えたようにございます。そちらは火消の皆様の目で最終のお確かめをしていただくとして……。まず、こちらの方を」
常盤井様は、青ざめてお倒れになっている安子様の方を、提灯をかざして辰五郎様に御示しになられました。
「これは……。この方はお腹が大きいじゃあないか。もしかして煙を吸っちまったんじゃねえか? こいつはいけねえ。医者だ、医者だ!
こうしちゃあいられねえ、そうだ、戸板、戸板だ。おい、新八、そこの納戸の戸板を外してこっちへ持って来てくれねえか、早く、早く! 時がねえ」
辰五郎様はその戸板を担架代わりに使おうとお考えになり、若い衆の一人に、納戸の木の戸板を外して持って来るようにお命じになりました。
「お前らいいか、こちらの方は身重でいらっしゃる。大切に大切にお運びしろ。そうだ、戸板は硬えから、何か柔らかいもんを敷かなきゃあな」
辰五郎様はそう仰って、火消しの魂の籠った角十字半纏を脱いで戸板の上に敷きました。それを見た若い衆も真似して次々と御自分の半纏を脱いで戸板に敷き、常磐井様は先程お脱ぎになった道行(コート)を拾って更にお敷きになると、と組の衆はその上にそっと安子様をお寝かせになり、おりんさんは安子様が寒く無い様、御自分の道行(コート)を安子様の上から掛けて差し上げました。
「おかあたま、おかあたま!」
大人達の緊迫したご様子に、泣きながら安子様が乗せられた戸板に縋る数え三つの花子様を、常磐井様がそっとお抱き上げになると、おりんさんは、目に涙を溜めて座り込んで居る七つの太郎君を、自身も幼い男子の母親らしく優しくお立たせになり、その右手を握って差し上げました。
「川向こうの銭湯の脇の、常磐井醫院へ」
常磐井様のお声を聞くと、辰五郎様とと組の若い衆は、へい! と勇ましく返事をなさり、力強く、それでいて揺れぬように静かに、赤鬼先生のいらっしゃる常磐井醫院を目指して駆け出したので御座います。
<とらうべ>
「ウウウ、ワワン! 」
大勢の人々の気配に、常磐井家の裏庭で飼って居る白犬のハチが、警戒して唸り声を上げました。
「おいおい、こんな夜中に一体何の騒ぎだい? うちは稚児医者(小児科)で、女科(婦人科)じゃあ無いんだよ?」
御一行が常磐井醫院に到着すると、稚児医者(小児科医師)の赤鬼先生こと常磐井院長が、それまで眠っていらっしゃったのか、酷い寝癖のぼさぼさの総髪頭をぼりぼりと掻きながら、御自宅兼医院のお勝手口から顔をお出しになりました。
「おとっつあん、いえ先生。この方が小火騒ぎを収めた後、気を失って倒れて居りましたので、急患としてここへ連れて参りました。」
常磐井様が父親である赤鬼先生に、こうご説明されました。
一方、火消しの若頭 辰五郎様は、お医者様がいらっしゃるのをしかと確認し、と組の衆に命じて安子様を戸板からそっと下ろさせ、診察室の布団の上に静かに横たわらせました。
「では、我々はこれで」
辰五郎様がきびきびとした動きで皆に一礼すると、と組の若い衆もそれに従って礼儀正しく医院を後にされました。
赤鬼先生が安子様のお顔を確認されると、
「これは……。牧野の倅の奥さんじゃあ無いか。こんなに衰弱しちまって。あゝこのお腹の大きさはもう九つ月と言った所だな。赤子は動いて居るかな……。まあ詳しい話は後だ。早速、触診する」
普段は明るく冗談ばかり仰って居る赤鬼先生も、この時ばかりは窪んだ目の眉間に深く皺を寄せ、真剣な表情で患者と向き合っていらっしゃいました。
「どれどれ……」
赤鬼先生は、いつに無く険しい眼差しで、安子様の脈を取ったり、目の瞳孔や御心拍を確認なさいました。
診察室には、看病中間(看護師)の常磐井様と、不安で押しつぶされそうな面持ちの太郎君、眠ってしまった花子様を腕にお抱きになったおりんさんが、赤鬼先生の御診察を固唾を呑んで見守っておりました。
赤鬼先生は、安子様の御腹部を丁寧に触診なさり、お腹の赤子の様子をお確かめになり、 「とらうべ」なる口の開いた木の棒状の聴診器で、赤子の心音を確認されました。
「ああ、動いて居るね。この子は元気なようだ」
赤鬼先生のこの言葉に、常磐井様、太郎君、おりんさんは、ひとまずほっと胸を撫で下ろしました。
赤鬼先生は続けて、「とらうべ」を安子様の胸に当て、その御心音をお聴きになられると、
「うむ……。問題はお母さんの方だな」
赤鬼先生は険しい御表情を崩さずにそう呟いたので御座います。
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