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大奥(PTA) 第四十話 【第九章 訪問】
【第九章 訪問】
<産後鬱>
年も明け、桃の花も咲き初める弥生(3月)となりました。
安子様は、ようやっとお首の座った宗次郎様を背におぶい、お手には何やら文字の書かれた留書き(メモ)を握り締め、寺子屋近くの御屋敷街の小路をとぼとぼと歩いていらっしゃいました。
安子様は昨年霜月(11月)の激しいお産の後、七日間眠る事も叶わず、産前は毎朝元気に鳥の声と共に起き、てきぱきと家事をこなして居られたのに、ここ数ヶ月はずっと、朝起き上がる事もままならず、体が鉛の様に重くお感じになる中、それでも無理を押してようやっと体を起こしてどうにか朝餉を御用意し、御自分は食欲が全く無いので召し上がる事も無く、ご夫君と太郎君を送り出した後は、力尽きた様にまた床に就き、宗次郎様に乳を吸わせるがままにして横になり、安子様は御気分がどんどん塞ぎ込んでしまうのを御自分では抑える事も出来ぬまま、鬱ゞと日々をお過ごしになられておりました。
ご本人はお気付きで無いかも知れませぬが、この様な御様子を、産後のお鬱と申すので御座いましょう。
ただ、生真面目な御性分の安子様は、大奥(PTA)の御吟味方(選出委員)の皆様と、以前お約束された通り、赤子の首が座りおんぶが出来る様になりましたので、これまで長くお休みさせていただいた分も皆様のお役に立たねば申し訳が立たぬと、如月(2月)の末頃から、怠いお体を押して、御吟味方(選出委員)の御会合にもお顔を出される様になっておられました。
着飾る気力も無く、着古した単衣を無造作に着付けただけで、御髪もほつれたままの疲れ切ったお姿の安子様は、本日は御吟味方(選出委員)のお勤めで、取締(委員長)のお伝の方様からお預かりした御名簿にある、寺子屋の御父母方の家々を訪ねて歩かねばなりませんでした。
<御割り当て(ノルマ)>
と申しますのも、安子様の産前産後の数ヶ月、常磐井様のお計らいで特別にお勤めを御免除頂いておりました間、御三役の皆様、常磐井様、おりんさんらの大変な御尽力により、九つ有る来年度の大奥(PTA)取締方(本部役員)のお役のうち、八つまではどうにか決まる目処が付いたものの、どうしても最後の御一席のみが、この弥生(3月)に至りましても決する事が叶いませんで、卯月(4月)の新年度が始まる前に、必ずや決せねば成りませぬ故、秋に目安箱に集められました窺書(アンケート)の御推薦の多かった方々のお宅を、皆で手分けして一件一軒、御説得に回らなければ成らぬことに相成ったからで御座います。
当然、御吟味方(選出委員)御右筆(書記)のお役付きで有られる安子様にも御割り当て(ノルマ)が御座いまして、本日はお伝の方様よりお預かりした御住所録を元に、最初に訪ねる一軒目のお宅の近くまで辿り着いたので御座います。
普段は、御気分や御体調にむらの有る奥方様に手を焼いておられる初島様でしたが、本日は、たまたま奥方様の調子が宜しかった様で、安子様はここへ来る前、義母宅にお立ち寄りになり、お女中の初島様に花子様をお預けする事が叶いました。一方、太郎君は寺子屋が引けた後、元気よく友達と遊びにお出掛けになりましたので、本日安子様は宗次郎様お一人を背中におぶい、御吟味方(選出委員)のお勤めを果たす次第となりました。
<個人情報>
「さあ、ここが昨年この町に越してきたばかりでいらっしゃる、前田様のお宅ですね」
安子様は左手に握り締めた御名簿を、再び確認なさってそう独りごちなさると、前栽を抜けて前田様宅の玄関の戸板をお叩きになり、
「御免くださいませ。大奥(PTA)の御吟味方(選出委員)の者です。御在宅でしたら、少しお話しを聞いて頂けませんでしょうか」
とお声掛けをなさりました。
弥生(3月)とは言え、まだまだ風も冷たく、ぱらぱらと雨粒も落ちて来るお天気の下、赤子を背負って見知らぬ方のお宅を訪ね歩くというのも、安子様に取られましては中々難儀な事に御座います。
しばらく何のお返事も御座いませんでしたので、お留守なのかしら、その場合また出直さねばなりませぬなあ、と安子様が諦めかけなさったその時、がらりと玄関の戸板が少し開いて、中からこの家の主婦と思しき一人のご婦人がお顔を出されたので御座います。
「大奥(PTA)のお方が、一体宅へ何のご用が御座いまするか?」
ご婦人は訝しげな御表情で、狭く開けた戸板の隙間から、安子様にこうお尋ねになられました。
「突然の御訪問、大変申し訳ございません。私は大奥(PTA)御吟味方(選出委員)の牧野と申します。お便りでも既にお知らせ致しましたように、大奥(PTA)では、来年度の取締方 (本部役員)を御選出せねば成らず、秋に回収致しました御窺書(アンケート)で、御推薦の多かったお方のお宅を、こうして訪ねて回って居るので御座います」
安子様は、背中でむずかる宗次郎様を揺らして宥めながら、この様にお答えになりました。
「ああ、そう言う事なら、うちは関係有りませんから」
とご婦人は僅かに開けた戸板をすげ無くお閉めになろうとされましたが、安子様は、
「そこを何とか。お話しだけでも」
と、戸板の隙間に手を差し伸べて、ご婦人のお顔をお見上げになられました。
「うちはね、引っ越す前の町でも、何年もさんざん大奥(PTA)のお勤めをさせられました。取締方 (本部役員)もね。でもそんなもの、引っ越して来たら全く数には入れて貰え無いんだねえ。しかも、顔も良く知らないから良いだろう、って窺書(アンケート)の票を、うちがこぞって集めちまうだなんて……」
確かに、見知らぬ人だからと、無責任に御推薦にお名が集まってしまった事は大変お気の毒、しかも前の町の寺子屋でさんざんなさった大奥(PTA)のご奉公は数には入らず、この方はまた一からこの町でも強いられるとすれば、これもわりなきこと、と安子様は胸を痛められたので御座います。
「それに……。あなた、一体何処でこの家の御住所をお知りになったのですか?」
ご婦人は安子様のお手に握り締めて居られる御住所録を指差され、詰問口調でこう仰ったので御座います。
「この御住所録は……。私はただ、御吟味方(選出委員会)取締(委員長)の方に渡されただけでしで、私は何も………」
安子様が戸惑いながらこう仰ると、前田様はこうお答えになられます。
「ふうん。私は昨年の春にここへ越して来た時に、確かに、緊急御連絡先としてここの御住所をお師様にお渡ししましたよ。けれど、寺子屋と大奥(PTA)は、別の御組織で有ると聞き及んでおりまする。寺子屋しか知り得ぬ御情報、何故大奥(PTA)のお方がご存知なのでしょうねえ」
「そ、その様な事を申されましても………」
と安子様が返すお言葉に詰まっていらっしゃいますと、背中におぶわれていらっしゃる宗次郎様が、お顔の赤い湿疹を掻きながら、大きなお声でお泣きになられました。
「あらあら、このぐらいのお子は、お顔にぶつぶつが出来やすいものねえ。かいかいしないのよ。おお、よしよし」
前田様も人の子のお母御でいらっしゃるので、赤子はお可愛いらしく、一瞬お顔が綻ばれましたが、直ぐに元の厳しい御表情にお戻りになられ、
「とにかく、うちは大奥(PTA)取締方(本部役員)を引き受けるつもりは御座いません。あなたも小さなお子様連れでお勤めご苦労様な事ですが、ここはどうか、お引き取り願いまする」
前田様はこう仰られ、戸板をぴしゃりとお閉めになってしまわれました。
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