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大奥(PTA) 第四十一話 【第九章 訪問】
【第九章 訪問】
安子様はしばし呆然としてその場に立ち尽くしていらっしゃいましたが、宗次郎様がむずかる故、右手でその御背中をとんとんと叩いてあやすと、左手に握り締めている御住所録の方に目を落とされました。
それにしても前田様が仰っていた事、寺子屋しか知り得ない個人の御情報を何故、御吟味方(選出委員)取締(委員長)のお伝の方様がお持ちになっていらっしゃったのか、それは不思議な事に御座います。まさか住職様(校長)から、御名簿が大奥(PTA)に渡って居るのでは? しかしそれでは、お上が定めた個人情報御保護の法度に触れる恐れは無いので御座いましょうか? 安子様の御心にはふと、その様なお考えが過ったので御座います。
なれど、そんな事は私が考えたとて詮無いこと、日の有るうちに次のお宅を回らなくては。お伝の方様より、御吟味方のお役付きの者は各々、最低でもお一人は御自分の伝手で来年度の取締方(本部役員)をお決めになる事、とのお割り当て(ノルマ)を厳しく言いつかって居るのですから。しかも私以外の御役付きの方々は皆、私がお役を御免除されて居る数か月の間に、もう各々の伝手でそのお割り当て(ノルマ)を果たされて居らっしゃるとの事。ですから私はどうにかして、この最後の一席を決めなくては成りませぬ。
この様に重圧を感じていらっしゃる安子様は、嗚呼こうしては居られない、と御住所録に有る次のお宅に向かわれたので御座います。
<向こう三軒両隣>
安子様は塞ぎ込まんとする御心を押して、徒歩にて表通りから一本入った裏路地にある、とある長屋に辿りつかれました。
「御免下さい、大奥(PTA)御吟味方(選出委員)の者です。田中様はいらっしゃいますでしょうか」
安子様がそのようにお声がけなさると、共用の井戸の周りで何やら御作業なさっていた一人のご婦人が安子様の方を振り返られ、
「私が田中だけど、あんた、この辺じゃ見ない顔だね。一体、何の用件だい?」
帯も付けず、腰を紐で括っただけの浴衣に湯文字、と言った普段着姿の田中様がこうお答えになりました。
「あのう、私は大奥(PTA)の……」
と、安子様がそこまでお話しになったのに割り込むような早口で、
「なんだって? 大奥(PTA)? ああ、帰った帰った。大体ねえ、うちは子供を寺子屋には入れたけど、大奥(PTA)なんぞに入った覚えはこれっぽっちも無いんだよ」
田中様はそう仰ると、迷惑そうにかぶりを振られました。
「と、申しますと?」
と安子様がお聞き返しになられると、田中様はこうお答えになりました。
「いいかい? 寺子屋と大奥(PTA)ってのは、本来別の御組織で有る筈なのに、御入学早々、何の断りも無くひとりでに会員扱いにされちまって、勝手にお役決めだなんだと振り回されて、おまけに会費まで取られちまうんだから。
御住職様(校長)に掛け合ったって、何だかんだと理由をお付けになって、大奥(PTA)を辞めさせてすら貰えないなんて、本当に堪ったもんじゃない」
その時、安子様と田中様のお話しが聞こえたか聞こえなかったか、長屋に戻って来られたもう一人のご婦人が、この会話に御加勢なさいました。
「あんた、聞いてりゃ大奥(PTA)御吟味方(選出委員)の方かい? じゃあご存知だとは思うけど、去年の暮ごろ大変な事が有ってさ」
もう一人のご婦人が安子様にこうお話しになりました。
「ああ、あれかい? 山田さんも大変だったねえ」
と田中様が相槌を打たれると、
「大変も大変。大奥(PTA)御吟味方(選出委員)のどなたかがうっかりして、窺書(アンケート)の一部を何処かに落としたか何かして、誰が誰を御推薦したかバレちまって、そりゃあ大変な騒ぎだったのさ。私は二軒先の長屋の、あるお方の名を書いたんだけど、それがその方に伝わっちまって、先方はそりゃあもうお怒りでね。それ以後、顔を合わせても口も聞いちゃあくれない」
安子様は、ご自分がお産で休んでいた間に、そんな騒ぎが有った事を今初めてお知りになり、目の前が真っ暗になる様な暗澹たるお気持ちになられました。
「とにかく、長屋は向こう三軒両隣、噂は筒抜けだし、人間関係が命なんだよ。こちとら、これからあちらの長屋にどう顔向けしたら良いんだい? 職人の旦那の仕事にも支障が出ちまうぐらいだよ。ほんとに、大奥(PTA)って奴は、やることなす事余計な事ばっかり」
山田様はこう仰ると、
「と言う訳だから、こちとら大奥(PTA)取締方(本部役員)なんざ、引き受けるつもりはこれっぽっちも無いんだ、さあさ、とっとと帰りな」
そのようにお言い捨てになり、山田様も田中様も安子様に背をお向けになり、お勝手口に下がって行かれたので御座います。
<染子様>
安子様がとぼとぼと長屋を後にする途中、お二人はこちらをちらちらとご覧になりながら、何やらひそひそとお話しをされており、そのご様子がより一層、安子様の御心をどんよりと重くしたので御座います。
安子様は御気分も悪くなり、もうこれ以上お歩きになる御気力も湧かぬほどで御座いましたが、このまま帰ったのでは、お伝の方様に何のご報告もお出来にならぬと思い、あともう一件だけでも回らなくては、とお手元の御住所録の次の一行に御目を落とされました。
「井伊 染子様」
あゝ、このお方は確か、御入学の儀の折、雪組の御組取締(クラス委員)をお引き受け下さった上、吹き矢の時分、幼い花子を見て居て下さった、大変お心延えの優れたお方、この方ならばもしかすると、こちらのお話しを聞いて頂けるかも知れぬ、安子様はこの事にに一縷の望みをお掛けになり、染子様の御自宅へと歩を進められたので御座います。
先日の御吟味方の御会合で聞いたお話では、この井伊様が、どう言う訳だか一番多くの御推薦をお集めになったとのこと、それはこの井伊様がお心延え優れ、御人望がお有りになる故でしょう。安子様はそのように御推測なさいました。
本日は春先の不安定な空模様で、先ほどまで打ち付けていた冷たい雨が、今はいったん止んでおりました。染子様の御屋敷の門前には立派な晩生蜜柑の木が有り、今を盛りとたわわに実を付けて居るのが見えました。安子様は前栽をくぐり、
「御免下さい」
と声をお掛けになられましたが、御返事は玄関からでは無く、縁側から続くお庭の方から聞こえて参りました。
首に掛けた手拭いで濡れたお手を拭いながら、染子様は満面の笑顔を安子様にお向けになり、
「あら、雪組の牧野様では御座いませんか。本日は、あの、小さいお姫様は?」
染子様は御入学の儀の時の事を覚えて居て下さり、花子様の事を話題にされました。
「本日は、知り合いに預けて来る事が叶いまして」
と安子様がお答えになられますと、
「まあ、そうなの。そしてまあ、お背中に、なんと可愛らしいお方が!」
子供好きな染子様は、安子様の背におぶわれた生後四ヶ月の宗次郎様のお姿に気付かれると、思わず顔を綻ばせなさいました。
「さあ、お上がりになって、と言いたい所ですけれど、今ちょうど雨の晴れ間で、お兄ちゃんを湯浴みさせて居たところだったのよ」
染子様はそう仰ると、お庭に敷かれた筵とその脇に置いてある湯の入った盥の方に、慌ただしく駆け戻られました。
筵の上には、足が棒の様に細く、青白い唇をした齢九つぐらいの少年が座っており、突然の来客に戸惑って居る様な表情で、安子様の方をご覧になったので御座います。
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