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一神教の成り立ちを知れば、地獄なんて怖くない

1.『サピエンス全史』に学ぶ、一神教の成り立ち

母親がクリスチャンだったことで、私はキリスト教を幼い頃から受け入れてきました。

しかし、ある程度自我が芽生えると、キリスト教の教えやコミュニティに違和感を覚えるようになりました。
(正直、自分の感覚が芽生えるのは遅いほうでしたが…)

それでも幼いときから刷り込まれてきた教えの力は強烈で、とくに地獄への恐怖は強かったです。
この地獄への恐怖を消してくれたのが、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史(上・下)』でした。

『サピエンス全史』は、人類(いわゆる「ホモ・◯◯」と言われる種)が過去に6種類存在していたという話からして衝撃的ですが、ここでは宗教についての話題に絞ります。

『サピエンス全史』下巻には、多神教と一神教の関係について書かれた部分があります。
その内容をざっくりまとめてみます。

・多神教の神々(ギリシャ神話でいうゼウスなど)の背後には、さらに至高の神的存在(ギリシャ神話でいうモイラ等運命の妻神)がいると信じられていた。
・この「至高の神的存在」は人間の欲望や心配には無頓着で、人間の望みを聞くことはない。
・人々が捧げ物をしたりして祈りを捧げる相手は、ゼウスなどの多神教の存在である。
・その後、多神教の信者の一部が、自分が気に入った守護神こそが「宇宙の至高の存在」だと考えるようになる。しかし、この神が自分たちをえこひいきしてくれるはずだという考えは残り続けた。

つまり一神教は、多神教の神々の一部から生まれたというのが著者の主張です。
一神教の成り立ちを説明されてしまうと、今まで自分が信じてきたキリスト教の神も、相対化できるようになりました。

2.一神教の描きだす世界は偏っている!?

私はこれらを読みながら、私は、多神教の神々のお話である「トロイヤ戦争」の場面を思い出していたんです。
トロイヤ戦争は、古代ギリシャの伝説に出てくる戦いです。現在のトルコ周辺で繰り広げられたとされています。

(当時の私は『サピエンス全史』の少しまえに、トロイヤ戦争を舞台にした叙事詩『イーリアス』を読んでいました。
そのため、私のなかでは「多神教の世界=トロイヤ戦争」だったのです。)

トロイヤ戦争では、トロイヤ王国とギリシャ連合軍(中心はスパルタ王国)が戦います。
この戦いでは神々も、トロイヤ王国側とギリシャ連合軍側に分かれて戦ったそうです。
面白いのは、ゼウスは一応神々のトップなんですが、神々がゼウスに従うとは限らないことです。
民主的といえば民主的、なのかな…。

さて、『サピエンス全史』の話を読んだあとでトロイヤ戦争の世界観を眺めてみると…。

一神教の世界は、本当はゼウス以外にも沢山の神々が戦っているのに、ゼウスの周りだけを切り取って、「ゼウス=唯一の神」みたいな映像を作り上げるようなものだと感じてしまいました。

(ゼウスがキリスト教の神というわけではないのですが、イメージとして)

そうして出来上がった世界は、とても偏ったものに思えました。

3.一神教の成り立ちを知れば、地獄なんて怖くない

そして、そんなことを考えているうちに、私のなかで、聖書は『イリアス』『オデュッセイア』のような文学の一部に思えてきました。
そしてキリスト教も、ギリシャの多神教と同じように、単なる宗教のひとつとして捉えられるようになりました。

私は何を根拠に、他の宗教がおとぎ話でキリスト教だけが真実だと信じていたんだろう?

どうして私は、ギリシャ神話の冥界の神を信じないのに、キリスト教の地獄の恐ろしさを信じこんできたんだろう?

ギリシャ神話の信者が今いないことも、キリスト教の信者が今たくさんいることも、ちょっとした歴史の偶然の結果だとしたら?

そんなことを考えているうち、おかしくなって笑ってしまいました。

その瞬間から、地獄が全く怖くなくなりました。
(信じている方には申し訳ないけど)その日から、地獄は私にとってはフィクションです。

地獄が怖いのは、何かが「存在する」ことよりも「存在しない」ことを証明するほうが難しいからなのでしょうね。

実際私も「地獄がない」と証明することはできませんでした。でも、その恐怖を限りなく薄めていくことはできます。
相対化は、私がキリスト教の絶対的な神と向き合うときの武器
なのです。

というわけで、私は死後の世界を信じません。

ただ自分が死んだ後も、クリスチャンでない今の家族を見守りたいし、また逢える場所があったら嬉しいとは思います。

そのためにも、また会いたいと思ってもらえるように相手を大切にしないとね。
至らないことばかりの私ですが、今の私には天国へ行くよりも大事なことなのです。

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