教会が窮屈だったのは、現実離れした「理想の子ども像」を押し付けられたから。

私は小学生の途中から、いわゆるキリスト教2世として教会に通うようになりました。きっかけは母親です。

教会に通ってた当時の私は、自分が教会に通うのが好きかどうかが分かっていませんでした。私の中には、教会を嫌いだと思う選択肢もなかったです。

教会の大人たちから話しかけられれば、それが説教であろうが、素晴らしいアピールをしたいだけの長話であろうが、「優しくしてもらった」と思っていました。
(もちろん、ナチュラルに親切な人もいました)

そんな私が「実は私、教会の人間関係がすごく苦痛だったんだ」と初めて気づいたのは、20代に入って教会内での交際話が持ち上がったときです。

※その時の話はこちらです。


1.教会の子どもに、現実と合わない「無邪気さ」を要求する「大人」たち

ただ私が高校生になった辺りから、教会の「大人たち」に対して「あれ?」と思うことはありました。
教会に通っている子どもたちの悪口を言うのはどうなんだ?と…。

「可愛げがない」
「子どもらしくない」
「大人の顔色ばかりみている」
「良い子ぶってる」

などなど…。

そうした悪口を小耳に挟みながら、「ああ、きっと私も言われてきたし、今も言われてるんだろうな」と思いました。私自身「子どもらしい子ども」として育つことは不可能だったからです。

本当にね、自分たちの醸し出す雰囲気や態度が、子どもに気を遣わせているんじゃないかとか、我が身を振り返ることもないのかと…。
あなたたちの長話をニコニコ聴いていないと、それはそれで、態度が悪いとか陰口叩くんでしょ?と…。

そして酷いものだと、ほとんど話したことのない子にたいして、
「あの子、自分が特別な存在だと思ってるのよ」
というものまでありました。

教会にいる自分たちを特別だと思っているのは大人たちのほうでしょ?
もし仮にその子が本当に「自分を特別だ」と思っているなら、大人の真似をしてるだけでしょ?
それに毎週こんな窮屈な人間関係でやっていくなんて、「自分は神様に選ばれた特別な存在だ」とでも思ってなければ、やってられないでしょうよ。

更にありえなかったのが、聖職者も一緒になって、
「ああ、あの子ですか?悪いところ、いっぱいありますよ」
なんて悪口
を言っているんです。

前の記事で、教会は上品な人たちが多かったと書きましたが、その上品な人たちがこんなことを話すこともあるとはね…。
(少なくとも私が育った教会はそうでした。
同じ宗派の中では人数が少ない教会にだったので、人間関係がより狭く窮屈になりがちだった面はあると思います)

大人たちは、教会に通う子どもたちに「無邪気さ」を求めていたようなのです。
「幼な子のようであれ」という新約聖書の言葉の影響もあるのでしょう。でも何よりも、子どもたちが無邪気に振る舞ってくれたほうが、「自分たちは子どもに心を開いてもらえるような優しい存在だ」と思えるからだと思います。

とはいうものの、無邪気さだけでは済まないのがしんどいところです。教会は「ハイソサエティな会員制社交クラブ」という面があります。

※この辺りは、昨日のnoteに書きました。

そのため、子どもに対してそうした面を暗黙に求める部分もありました。
もちろんそれを敏感に気にする子と気にしない子がいました。これは、親が教会での評判に対してどの程度しているかで変わってくると思います。

…と、教会の大人たちが子どもに求めるものを色々書いてきたけど、これらを満たすのは、かなり難易度が高いです。

天真爛漫で大人の顔色を一切うかがわないのに、大人の長い話はニコニコ最後まで聴いて、かつ大人たちの「私たちはハイソサエティな集団なのだ」という自意識を叶えてあげる。 

これ、真面目に期待に応えていたら、ぶっ壊れます。
ええ、私は天真爛漫でなく、ガッツリ大人の顔色をうかがい、ニコニコ大人たちの話を聞いていましたとも。そもそも、これらを無邪気にこなすのは不可能でしたもの。

そして、私が今この年齢になってあり得ないと思っているのは、こうした悪口を主に言っていたのが、子育て中が子育てを終えた「お母さんたちだったことです。

しかも「子供らしくない」と悪口を言われていた子たちの年齢が、小学校高学年以上だったこと。
その年齢の子たちが天真爛漫なわけないだろうに、子育てしててそんなことも分からなかったのかと言いたくなります。

そして、子どもというものに対する認識が現実離れしている人たちが子育てをしてきていることにも、やりきれない気持ちになるのです。

このように教会の人たちが思い描き、そして子どもに押し付ける「理想の子ども像」は、現実からかけ離れたものでした。

私がこの年齢になって、当時の大人たちに対してツッコミを入れたい。
「『子どもらしくない子ども』は、『子どもらしくいることができない子』なんだよ。しんどいのかな?大丈夫かな?って心配するのが筋じゃないの?
仮にも愛の宗教名乗ってるあなたたちが、鬱陶しがって悪口言うってありえないでしょ!?」

(一言でまとめると、「本当に思いやりのない人たちだよね」に尽きます。
こんなこともあったから、私は『愛』という言葉が苦手人なってしまったんだなと再確認…)

2.子どもを、自分たちが素晴らしい集団だと思うための「背景画」として扱っていませんか?

また私は、ふと高校生の時こんなことを思いました。
「私たち(教会に通う子どもたち)って、教会の大人たちが『自分たちは素晴らしいんだ』と思い込むための舞台装置みたいだな」と…。

たとえば他の教会と比べて、多くの中高生が教会に通っていると、大人たちは
「こんなに若者たちが通っている教会は、他にはない」
と言い合います。

通ってる子どもたちが偉いのではなく、
「そんな子どもたちがいる教会が素晴らしい」
→「私たちの教会は特別」
→「そんな教会に通っている私たち大人は特別」
という謎の思考回路をたどるのです。

もう私たち子どもってさ、脇役ですらないよね。背景画だよね。もう私なんて、木の枝3号とかだよね…。
教会の大人たちと話をしながら、笑顔で応じながらもふっと虚しい気持ちにおちいることがありました。

私のいた教会に限らず、キリスト教界は「子どもが沢山来てほしい」「若者に沢山来てほしい」と言い続けています。

でもその子どもたち、若者たちに沢山条件をつけているのはあなたたちではないですか?

誰がそんなところに通いたいと思うのか…。そもそも子どもや若者は、あなた方の理想を叶える道具じゃない。
そう言いたいです。

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