教会の一部で広まった「子どもがおかしいのは精神科の薬のせい」説

私はメンタルを病んだときに、所属教会(伝統的なキリスト教)の人たちの精神疾患への偏見を目の当たりにすることになりました。
そんなとき、母が不思議なことを言うようになりまして…という話です。


1.教会の一部で広がった「子どもがおかしくなったのは、精神科の薬のせい」

母がいつからか、私がメンタルの調子を崩したことについて不思議なことを言うようになりました。
「ちくわがおかしいのは、薬のせいだよ」
眉間に皺を寄せて、すごく険しい顔で言うのです…。

薬を処方される前に、眠れない、動けない、希死念慮などの症状があったから薬を今飲んでいるわけなのに、そのことも綺麗さっぱりなかったことになっているのが怖かったです。そのときも、妙な理屈だとは思いました。

そして程なくして、母が教会で親しくしている人(母親)も似たようなことを言っていることを知りました。

その人もまた、私も同世代のお子さんがメンタルの調子を崩して苦しんでいました。そしてそのお母さんの判断で、お子さんの薬を少しずつ減らすこともせずに、いきなり止めさせていました。

どうやら当時の教会のなかでは、子どもがメンタルを病んだ親たちの間で、
「子どものメンタルがおかしいのは精神科の薬のせい」
という謎説が広がっていた(流行っていた)
ようなのです…。

私が以前書いた記事、

でも書いた、
「成人後も私の周り(母周辺の教会の人間関係)では奇妙な価値観が伝染し、私はその巻き添いを食うことに」なったこととは、まさにこのことです。

物事が起こった順番の時間軸も無視した謎理論でしたが、親たちは真剣にそう信じていました。

もちろん、こんな教えはキリスト教(少なくとも私もいた宗派)にはないはずです。
私のいた教会、精神疾患への差別はあったけどね…。

…強いて言うなら、精神性を重視するキリスト教を信じる人たちにとって、人間の気分や考え方が化学物質(薬)で変化するということ自体が受け入れ難いことだったのかもしれません。

ですが、当時の私がこの理屈に抱いた違和感があります。
子ども(一応成人後)に薬をやめさせたがる割に、
「その代わりにカウンセリングを受けさせよう」
という発想にもならなかったことです。

精神科の薬が良くないかもしれないと考えたとして、目の前に症状で苦しんでいる我が子がいるとしたら…。

(私の一当事者の経験としてお話しするなら、正確な診断のもとに処方される薬は有効です。ただ薬の調整の上手下手は医師による気もしますが…。
 あとは心理療法《私の場合はトラウマ治療》と併用するといい場合もあるかと思います)


百歩譲って私がその立場だったら、薬以外の方法を考えると思います。
代替療法はそれはそれで危ういのだけれど、たとえば心理療法(いわゆるカウンセリングなど)で苦しみを和らげられないかとかね…。

母やそのお母さんは、治療を受けていると言う事実をなくすことで、子どもが心(=脳)を病んでしまったと言う事実も消してしまえると無意識に思ったのではないか…。
どうしても、そう考えてしまうのです。

2.選民意識に取り込まれると、現実を見ることができなくなる

母と、乱暴に子どもの精神科薬をやめさせたお母さんには、共通点があります。
それは子どもたちの思春期が外側から見る分には順調で、よその親御さん見下していたことです。その後の我が子に起こったことを事実として認めることができなかったのだと思います。

私は母やそのお母さんに直接問いただしたわけではありません。
(そもそも母とは対話が不可能です。この時はただ諦めていませんでしたが、のちにそれを痛感することになりました)

ただ一つ考えているのは、「選民意識は魔物だ」ということ。

「神様に選ばれた特別な私」と思えることは、気持ちがいいです。私もこの感覚にすがった時期がありました。
ただ、特別さを求める感覚は満足を知りません。もっともっとと周りに求めてしまうのを、私は自分が育った教会で見てきました。

選民意識は、特別な存在でありたいという「欲の底なし沼」の入り口です。

そこに入ってしまうと大変です。
自分の周りが「特別さ」を証明してくれないとき、むしろ「自分は負け組なんじゃないか」という気持ちにさせるとき、
(そもそも他人で自分の特別さをかさあげしようという感覚が、周りを道具のように扱っているのだけど…)
その現実を受け止めることが、より難しくなるように思います。

母やその周りが、我が子の精神疾患の原因を薬のせいにしてしまったのは、おそらく…。
現実を受け止められなかった誰かが編み出した理屈に、他の人たちもすがりついてしまったのではないかと想像しています。

そして、そうなった背景には宗教で与えられる選民意識が影響しているように思えるのです。

3.そして、治療をやめた私のその後

結局私も、精神科への通院自体をやめることにしました。母が何かにつけて言ってくるので、根負けしたのです。
ただ急に薬をやめるのは怖いと話し、地元での主治医に「症状はもうありません」と言い張り、少しずつ薬を減らしてもらいました。

確かにそのときは不思議と症状は引っ込んだように思いました。
ただ希死念慮は相変わらず強かったし、元気だったころほどは動けなかったです。つまり、私は治っていなかったのです。

そしてその数年後、とある事件をきっかけにトラウマ症状全開になってしまい、トラウマ治療につながることになりますが、その話はまたいずれ…。
当時適切な治療を受けられていれば、私の20代はどうだったのだろうと思わなくはありません…。

精神科の薬をめぐって暴走したのは、教会の一部の母親たちにすぎないのかもしれません。

でも司祭や教会の人たちが、精神疾患をもつ人たちに思いやりを持てていれば…。
教会のなかで、精神疾患は脳や神経系の不具合だという正しい認識が共有されていれば…。
このようなことは起こらなかったのではないか
と思います。

4.気分や考え方が脳内物質のせいでもいいじゃない?

本日のnote、ここから書くことは最後のおまけです。
私は、気分や考え方が脳内物質にある程度左右されるとしても、人間の尊さが損なわれるわけではないと思うのです。
(もしかしたら地球上のあらゆる生物の中での、人間の特別さは微妙になるのかもしれませんが…)

むしろ当時の私が、動けなかったり希死念慮で頭がいっぱいな自分について「ああ脳内物質がうまくいってないんだな」と心から思えていたら、そこまで自分を責めずに済んだはずです。
自力だけでどうこうできることではないと分かるから。

また教会の人たちも、そうした医学的な知識を受け入れていれば、
「精神疾患で苦しむ当事者を責めたところで、症状が良くなるものでもない。」
ことが理解できたかもしれせん。

当時我が身に降りかかったことを思い出しながら、そんなことを考えました。
私が経験したことはキリスト教のせいではないかもしれないけど、私の母が教会に関わらなければ経験せずに済んだことなのではないか…。

そう捉えています。



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