宗教1世の母に必要なのは、本当に信仰だったのか…


今日はこの記事にも書いてきた、

1-2.宗教は時として、1世が解決すべき課題を覆い隠してしまう…
の内容を、私の経験からさらに掘り下げます。

今の私が宗教全般に不信感をもっているのは、
「母にとって必要だったのは、本当に信仰だったのだろうか」
という思いがあるからです。

私は教会の人たちが母を騙したとは、思っていません。「必要そうだったから、神様のことを教えた」だけなのは分かっています。

それでも、何度も考えてしまうのです。
母に必要だったのは、本当に「信仰」だったのだろうかと…。


1.宗教によって課題に向き合わず、「平安」に過ごしていた母

母が教会に通うようになり、それと同時に私も連れていかれるようになってから我が家に起こったことを書き出してみます。

教会に通って母が選民意識に取り込まれてしまい、母が暴力を振るうときに一切迷わなくなりました。
(我が家の場合、母が信仰に入る前から暴力は酷かったです)

教会の司祭が母の暴力を「罪ではありません」と肯定してしまいました。

子どもが荒れるなどのサインを出しても「悪魔のせい」にして向き合うことはありませんでした。
(※そうした教えは、私のいた宗派にはない)


また私を含む教会2世たちがメンタルを壊したときに、大人たちが選民意識ゆえにその事実を受け入れられず、一部の親がメチャクチャな暴走をしました。


母は宗教のおかげで、向き合うべきものに向き合わなくて済んだのでしょう。
母自身の心だけは、周りにひずみを押し付けて平安だったのかもしれません。

でも、今思うと「あれ?」ということもあるんです。


2.母も本当は、分かっていたのではないか…

私が結婚する前後、母は極端に「悪魔」に脅えるようになりました。

「この家には悪魔がたくさんいる」
と真面目な顔で言うようになりました。
私を悪魔呼ばわりしたそうに当てこすって言うときもありましたが、本気で悪魔が家中にいると信じているように見えるようになりました。
(幻覚ではないと思います…)

確かに私のいた教会の司祭は、悪魔の話をよくする人でした。母も少しはその影響を受けたのでしょうが、母自身の抱える問題が大きかったと思います。

本当は母もおかしいと思っていたはずです。

キリスト教で教育した娘(私)が、メンタルを病んだこと。
「母の考える最強の子育て」をしてきたのに、母が望む結果にならなかったこと。
娘が自分の機嫌をとりつつも、内心自分や教会から距離を取ろうとしていること。

そして、夫との関係もどんどん冷え切っていったこと。

(母は父がクリスチャンでない、もしくはキリスト教の価値に気づけないような人間だからだと言っていました。そして教会に夫婦で通っている人たちを羨んでいましたが、本当のことなんて分からないのになと思いました。
母でさえ、教会にいる間は取り繕っていたんですから…。)

母が口にすることはなかったけど、内心、
「神様なぜ私は幸せになれないんですか?」
と思ってはいたんでしょうね。

私が教会に行けなくなったときに、母は荒れ狂いながら嫌味を言いました。
「家族だって(家族=私)信じられないんだから、私は神様と一緒にいるしかないの!その何がおかしいって言うの!?」

母の信仰を否定したことは一度もないし、それを言うなら私はとっくに家族なんて信じてなかったけど、それは置いておいて…。
母の場合、「神様は私と一緒。私は神様の側にいる」と信じ込むことで、問題の所在を周りに押し付けるクセが酷くなったと思うのです。

でも母も、本当は分かっていたのでしょう。「神様の愛」では、何一つ問題は解決していないこと…。だから「悪魔」という神の強大な敵に対して、恐れるようでしがみついている。

(こういうことを書くと、
「伝統的なキリスト教は新興宗教とちがってご利益宗教ではありません」
と言われるでしょうね。でも、それならどうして祈るの?と思います)


3.母に必要だったのは、「信仰」よりも「治療」だったのではないか…

母の暴力が一度始まると、止まらなくなったこと…。おそらくトラウマの影響で、神経が高ぶりやすく、かつ落ち着きにくかったのだろうと思います。

(とはいえ兄弟が壁を壊すなどするようになったら、やめたよね。結局弱い相手だから、やってたんだよねとも思う)

実は母自身も、治療すべきトラウマを抱えて生きてきた人なのです。
そのトラウマを抱えたまま信仰に出会い、
「神様と出会えたから良いじゃない!」
と救われた気持ちになって、
今までの問題に堂々目を背けることができるようになって…。
そして問題が見えなくなったことを、最初からなかったんだと思い込むようになって。

「神に出会えた」というのは、人生という物語をつむぐときの最強のパーツです。
それまでの人生での苦しみを一気に素晴らしいものに変えてしまえるからです。信仰には人生を肯定するという力があるのは、私も理解しています。

でもね…そのひずみを引き受けるのは、2世である子どもです。
親が自ら背負わなくなった課題を負わされ続ける苦しみを、1世の親たちも、1世を信仰の道に引き入れてきた人たちも全く見てこなかったのではないでしょうか。
そんなこと…というなら、一度長い年月背負ってみれば良いよと思う。

私は今、母との交流をやめてしまっています。
でも母がなぜこうなってしまったのかは、多分教会の人たちよりも分かっています。
問題は、母が娘の交流を絶たれてもなお、自分の問題に向き合えなくなってしまったことです。
元々向き合う力は弱かったのかもしれないけど、キリスト教の選民意識や教会の人たちの無責任な慰め(慰めるしかない立場も分かるけど)で未だに自分を肯定し続けています。

自分を肯定するって、「あなたも私も尊い」ということであって、「自分だけが尊くて正しい」と思い込むことではないんだけど、それが母には分からないのです。

もし万が一、母がトラウマ治療を受けて、自分の課題と向き合い、人を攻撃してしまいやすい母自身の神経系(神経がつねにピリピリして、ちょっとの刺激で逆上してしまう)を治してくれることがあれば…。
私はまた母と少し関わることができるのかもしれません。
でも、そんなことはないだろうことも私には分かっています…。

母が若かった頃は、今あるようなトラウマ治療の手法もありませんでした。母が生きていくには、あの頃は教会しかなかったのも理解はしているのです。それでも、やりきれない思いは残ります。


4.今なお、トラウマ治療が受けにくい現実に思うこと

だからこそ、私は思うのです。
私のような宗教2世を少しでも減らすには、トラウマ治療がもっと受けやすくなってほしいなと…。

臨床心理士の不安定な雇用環境や、トラウマ治療の手法を身につけるための講習も高額なこと、そんな背景もあるのでしょう。
トラウマ治療を受けるには、多額のお金がかかります。年単位の治療が必要なこともあるから、最後まで続けられない人もいる。

また臨床心理士の立場にしても、不安定な雇用の方が多くて、その経済的基盤でトラウマ治療の講習を受けるのは厳しいだろうという想像もできる。

本音を言えば、トラウマ治療を保険診療にしてほしい。トラウマによって働けない人間が(たぶん多い)出てしまうことは社会的損失でもあると私は感じています…。

今日の記事は、自分の悔しさをいっぱい詰め込んだから長くなりました。そこには母自身に関することだけでなく、時代というものへの悔しさも含まれています。
お付き合いいただき、ありがとうございました。



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