猛毒が抜けたあとで…
こんにちは。2023年から年をまたぐかどうかと瀬戸際、書き残したことを投稿しまくっています。今回は、今までのnoteのあとがきのようなお話です。
(2024年はトラウマ治療の経験を中心に書く予定です。)
私の宗教2世(キリスト教)としての経験は、まえの記事までで一通り書き切ったかなという感じです。
最後まで書き切れたことが素直にうれしいです。お付き合いいただき、ありがとうございました。
noteを通して、母や教会への怒りの感情の大部分を外に出すことができました。
正直まだまだ思い出すこと、それってどうなのと思うことはおります。でも、それはを文字として私の外に押し出すだけの怒りは、私の中には残っていません。
これからまた、どこかの時点で怒りが再燃するきっかけはあるかもしれませんが。
でも今の私は、noteを書き始めた当初は考えられなかったくらい穏やかな気持ちでスマホに向かっています。
書くって不思議です。私のなかにある過去のできごとも感情も、ことばや文字にすることで、外の光の元で眺めることができます。
逆に言うと記憶がなかにだけあったときには、記憶の持ち主の私でさえ、その全貌を眺めることができなかった。
だから、過去の出来事を実際よりも大きくおどろおどろしいものだと思い込んだり、実態よりも大したことないことのように思ってしまっていたりしていました。
正直、noteに書いてみた感想は、
「ああ、こんなに酷かったんだ。私の親は、教会は…」というものでした。
苦しい、逃げたいと思ったときの気持ちを、やっと「おかしい」と思わず、そのまま認められるようになりました。
書くことの力は大きいです。
ただ反発も受けるし、自分の記憶に再び傷つく作業ではあるから副作用も大きい…。
「書く」ことは、たまたま今の私にとって過去を過去にする助けになりました。でも他の方に勧めたいとは思わないです。
私がキリスト教のことで一番悩んでいたときには、ネット上にはキリスト教はとにかく素晴らしいみたいな言説がほとんどでした。
でもキリスト教2世として育って怒り、傷ついていた人たちのブログも少ないながらも存在していて、ああ私だけではないのだと助けになったのは事実です。
私が書いてきたnoteは、信じる方にとっても信じない方にとっても歯がゆく感じられるものかもしれません。私自身が神に対して、中途半端で宙ぶらりんに生きていくことにしたからです。
でもネットにはいろんな立場の言葉があってほしいと思います。
他者の尊厳を傷つける言論は受け入れ難いけど、いろんな言葉があればあるほど、誰かのことばを読んで孤独が癒やされる人は増えると思います。
私が書いてきた言葉が、(来年以降もトラウマ治療をテーマに描き続けますが)そうした言葉のひとつになれるなら、こんなに嬉しいことはありません。
本当にありがとうございました。
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