同じ宗教内でも、宗教2世のしんどさを左右するもの

このnoteでは当面、私のキリスト教半生を振り返ることにしています。
…とはいえ私の経験が特殊であろうことは自覚しているつもりです。
(むしろ、特殊な事例であって欲しいです)

今日はそのことについて、少し補足説明します。

同じ宗派の中でも、宗教2世の経験はバラバラ

実は伝統キリスト教といっても宗派が細かく分かれていて、その教えによっても2世のしんどさは変わってくると思います。

さらに同じ宗派のなかでも、2世3世(もしくはそれ以上)の人たちの経験のバラツキは大きいです。
何がその経験を左右するのか、私が考えているものを3点挙げてみます。
(そして私の場合はどうだったかをお話しします)

1.教会の規模

私のいた宗派は、一応老舗大手でした。そのため極端な話、信徒数が1万人を超える大規模教会もあれば、数十人規模のところもありました。
人間関係が違ってくるのは当然ですよね。

私は家族の引っ越しによって、同じ宗派のなかで2、3回教会を変わりました。
市の中心部にある比較的規模の大きな教会は、人間関係もあっさりしています。都心の大きな教会であれば、誰が教会に来てきて誰が来ていないかも気にしない世界。

一方で私がいちばん長く所属した地方の小規模教会は、村社会的な要素が強かったです。
母にとってはこのアットホーム感が良かったようですが、2世にとっては教会のすべての人は親に紐付いていますからね…私は息苦しかったです。

地方特有の、とにかく年配の人たちのご機嫌を取らなければならない空気や男尊女卑の強さも、しんどさに拍車を掛けていたように思います。

2.聖職者の思想背景やキャラクター

穏健な宗派では、聖職者によって言うことがちがあことがあります。私のいたところは、トップダウンな組織である一方、幅広い解釈を内包していた印象です。

たとえば、江戸時代に行われたキリシタン対象の踏み絵も「踏んでいいよ」という聖職者もいれば、そんなことはまかりならんという聖職者もいました。

ただそうした面が宗教2世問題ではどのように働いていたのか、私がみてきたことをお伝えします。

2-1. 教会全体が変わるには、気の遠くなる時間が掛かるのだ…

さて、私のいた宗派は、1960年代以降かなり緩くなった(あまり罪や地獄で脅さなくなったらしい)そうです。しかし、私の経験した世界は罪や脅しに満ちていました。
(このことについては、また記事にまとめます。母の虐待だけが原因ではありません)

むしろ、私が所属していた教会の聖職者は、今の地獄や世の終わりについて語らなくなったことを嘆いていたくらいです。
同じ宗派であっても、組織がよりソフトな方向へ路線を切るまでには数十年単位の時間が掛かるということなのだと思います。その狭間に投げ込まれた側はたまらないですけどね。

つまり同じ宗派でも、私のように地獄や罪で脅された人もいれば、ふんわり神の愛だけを伝えられた人もいるのでしょう。おそらく年齢によっても、微妙に教えられ方は変わってくる。
同じ組織のなかでも、伝えられ方、恐怖の感じ方などが違ってくるというのが、伝統キリスト教2世問題の難しさかもしれません。

どっちが本当のことを言っていて、嘘を言っているのかと言うはなしではないんですね。


2-2. 聖職者の"厳しさ"

2世のしんどさを左右する要素として重要なのが、聖職者のキャラクターです。
キリスト教では毎週日曜に礼拝(カトリックではミサと言います。集会と言うところもあるのかな?)に出るのが一般的です。

教会に所属している子どもが日曜教会に来るかどうかも、聖職者にとっては重要なこと。
ただ、それについて口うるさくない聖職者もいれば、子どもが教会に来ないことで母親を責め立てる聖職者もいました。
(母親限定なのが腹立たしいですよね。こういうところにも旧来の価値感が残っているのを感じます)

たとえば、私の話ではないので具体的なことは書けませんが、聖職者の言葉がきっかけで、教会に行くのを拒否した子どもに暴力を振るったお母さんがいるのも知っています。

聖職者の言葉って、発した本心が思うよりも深刻に、親御さん(あくまで母親)を追い詰めるんですよね。そのことは教会を運営する側にも知って欲しいです。

3.親の教会コミュニティへの依存度

これは伝統キリスト教の特徴かもしれないと気づいたことですが…。

宗教2世問題がクローズアップされてから、私は他宗教の2世3世さんたちとも交流するようになりました。
そこで気づいたのは、より悪質な宗教ではいわゆる1世がどの程度宗教にコミットしなければならないかや、家庭の中のしつけ方等への干渉が強いということです。

私のいたところを振り返ると、親自身がどの程度教会にコミットするか自体は比較的自由だったように思います。
教会の仕事をきっぱり断り、日曜の礼拝には出るけどすぐ帰る人もいれば、教会のコミュニティにどっぷり依存する人もいる。

教会へのコミットが薄い人は、教会の人たちの視線や聖職者がかけてくる子育てへのプレッシャーで、追い詰められることは少ないと思います。

一方、教会に"居場所"を切実に求めている人だと、聖職者や教会の大御所信徒の目も気にしてしまいます。教会でいい顔をしたいがために、子どもに教会に行くよう強制するかもしれません。

さて、私の場合は?

そこで、私の場合はどうだったか。
まず、私が一番長く所属した教会は小規模な教会でした。

つぎに、聖職者はとても厳しく「子どもが教会に来ないのは母親の責任だ」と説教で指摘するような人でした。
また私が母親に連れられて教会に通ったときには、1960年代に教会が大きく変わる以前の罪と脅しの色合いの強い教えを受けました。
その大変革から30年は経っていたにもかかわらずです。

そして母親の教会コミュニティへの依存度は♾️!!!
母は嫁ぎ先との付き合いなどで悩んでおり、年配の女性たちに優しくされるのに飢えていたんでしょうね。
(母が教会に通い出した背景には、子育てに悩んでいたこともありますが、ここでは触れません)

母は、優しくしてれる上品な奥様方にいい顔がしたくて、娘の私はそのための駒だったのです。

キリスト教の教会コミュニティは、いわゆるハイソサエティ層が多いのです。母はその人たちに憧れていて、お近づきになれることが嬉しかったようです。

「お嬢さん、教会に来ていて偉いわね」
「お嬢さん、きちんとしてて偉いわね」
「お母さんがしっかりされてるのね」

この教会コミュニティで気分よくいたいという気持ちは、ゆくゆくは娘をクリスチャン同士で結婚させたいという母の願望に繋がっていき、またそこで一悶着あるのですが、その話はいずれ…。

…というわけで、私の場合も宗教2世問題で苦しむようになるまでには、いろんな要素が積み重なっていました。
ああ、私色々詰んでたわ…。
今日はそんなお話でした。

つぎの記事は、同じ教会の宗教2世であっても、男性と女性とではしんどさが変わってくるよと言うおはなしです。



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