私の家は実質「母を教祖とするカルト」だった…

プロフィールやnoteでも書いてきた通り、私は伝統キリスト教の2世です。
そして母親に連れられて教会に通いはじめるまえから、母からの虐待に苦しんできました。

そしてこれに宗教虐待が加わり、虐待はエスカレート。
私の育った家は、実質「母が教祖として君臨するカルト」となっていました。

母は神やキリスト、聖人たち、教会の権威を使いながら、私への暴力や支配を正当化しました。
私もまた、なかなか母の支配から抜け出すことができませんでした。

◆カルト化する我が家と「教会の母親=良い母親」という大前提とのギャップ

私が一連のnote記事で言いたいことは、たとえその宗教や宗派の思想が「まあまあ」穏健だとしても、家庭がカルト化することは十分ありうるということです。
「家庭のカルト化」というか「ホームカルト」というか…。
(「ホームカルト」は私の造語ですが、先におっしゃってる方がいらっしゃったら、ごめんはさい)

教会の中では、
「クリスチャンは良い人たちの集まり」
(「教会は罪人の集まり」という言葉はよく聞きましたが、実質聖職者や立場の強い人たちの至らなさを庇うための言葉として使われていました)、
「教会のお母さんたちは愛情深い良いお母さんたち」
(教会に来るのは母親+子ども、父親は信者ではないため来ないというパターンが多い)
というのが大前提でした。

自分が日々浸かっている現実と、教会という神様の世界で信じられている前提とのギャップはあまりにも大きかったです。

こうしたギャップをまえに、私も「私の母も、いいお母さんなんだ」という前提に自分の経験を無理やり当てはめようとしました。

私が自分が虐待されてきたことに気付いたのは、大学に入ってからでした。気づきが遅れたのは、教会のこの大前提があったのも大きいです。

しかも、こうして自分の感じることを「調整」しても、湧き上がってくる違和感や苦しさ、人生を終わりにしてしまいたいという気持ちはなくなりませんでした。
教会の誰を恨むものではないけれど、やりきれない思いは残ります。

教会の中にも虐待されている子ども(もしくは虐待されつづけている成人)がいるかもしれないことを、教会の人たちには知ってほしい。
私は時々、そんなことを思います。

◆母は如何にして、キリスト教を虐待に利用したか

1.地獄を持ち出して脅し、暴力をふるう

教会に通うようになって以降、母は気に入らないことがあると、「お前なんて地獄だ」と言いながら暴力を振るうようになりました。

残るのは、終わりがないという絶望感。
苦痛を受けている時に地獄を持ち出されるのは、苦しみに終わりがないどころか、私には今以上に悲惨な未来しかないのだと刷り込まれることでした。

2.みだりに「神」の名を持ち出し、暴力や支配を正当化する

母はたとえばこんなとき、神を持ち出しました。

(例)
・私が母に殴られて、母に見えないように怒りで顔を歪めたのが鏡に映ってしまい、それが母に見つかった。
・私が日記で母に対して攻撃的な内容を書いているのを母が(勝手に)読んだ。

そんなとき、母はこういうのです。
「神様がママに教えてくださったのよ。お前がズルをしたって、バレずにいることはできないんだよ!」
そして、いつ終わるか分からない暴力。記憶が飛ぶ私…。

小学生の私にとって、神は殴る人間の味方でした。私がどんなに祈っても、暴力から逃れることはできなかったし、母が心を入れ替えて虐待をやめるなんていう「奇跡」は起こらなかった。
私は神の存在を教えられる前よりももっと、人生に絶望するようになりました。

神を利用して、相手の人間性を踏みにじるのに特別な肩書きはいりません。

神やキリストを名乗らなくても、神父や牧師という肩書きがなくても、親子という関係性があれば簡単にできてしまいます。子どもにとっての親は、ただでさえ生殺与奪を握っている絶対的な存在だからです。

虐待をしない親は、神を使って支配することを「選ばない」というだけ。

3.教会の権威を利用して、子どもに罪の意識と恐怖を植え付ける

さて、私がいたキリスト教の宗派には、他にはない教えがありました。それは、
「罪を犯したら聖職者に告白しなけれはならない。聖職者がその罪をゆるせば、キリストもその罪を赦してくださる(逆にいうと、告白しなければ罪は赦されない)」というものでした。

母は「私の心を入れ替えさせる」ために、この教えを利用しました。
母は何かあるとすぐに「告白してきなさい!」と命令し、その日曜教会に行くと、母の前で聖職者に「罪の告白をさせてください」とお願いさせられます。私の意思は一切関係なし。

私はこの「罪を告白して、赦される」という仕組みが多くの信徒にとっては癒しであることを知っています。

ただ私のように、親が支配のためにこの仕組みを使ってきた身からすると、
「さあお前は罪人だろ!白状しろ!さあ罪を吐け!」と脅されている(もっと言うと拷問を受けている)
ように感じるのです。
自分の顔をつかまれて、砂の中にグイグイ押し込まれるような感じに似ています。屈辱以外のなにものでもなかった…。

ここまで私の母が、どうやってキリスト教の教えを利用して私を支配、虐待してきたのかを書いてきました。 

そして最後に取り上げた、この「罪の告白」の教えを、私という虐待サバイバーはどう経験して感じてきたのか。
次の記事では、それを詳しく書いていきます。

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