戦後3

さてGHQによる占領政策が開始され日本政府がまず直面した問題は、天皇陛下がいかにしてマッカーサーに会うかということでした。…いろんな工作が試みられ、…宮内省からは藤田尚徳侍従長が面会を申し込みます。…侍従長は海軍出身で、藤田さんは海軍大将です。「天皇陛下が閣下にお会いしたいということならば承諾していただけますか」という問いに、喜んで、と返事をもらったわけです。…
というわけで、天皇陛下がマッカーサーのもとに赴くかたちが決まりました。…

マッカーサーと天皇の会見は、合計11回行われました。もっとも最後の1回は、マッカーサーが日本を去る時の儀礼的な別れの挨拶だったので大したことはありませんが、全10回の重要な会談内容は、現在も公表されていません。これが明らかになるのが大変望ましいと思うのですが、そうしないというのが二人の約束なのだそうです。…
内容は公表しないという「男の約束」を、天皇は守りました。ところがマッカーサーの方は、ちょこちょこ喋っているようで、その話がちょこちょこ入ってくるわけです。

平成14年10月17日、外務省が天皇・マッカーサーの第1回会見の公式記録を公表しました。通訳として立ち会った奥村勝蔵さんー真珠湾攻撃の直前、ワシントンの在来日本大使館で、アメリカへの宣戦布告の書状をタイプでポツンポツンと打っていて間に合わなくなった当人ですーが残した記録が新聞に大きく取り上げられたのです。
これまでの基本となるのはマッカーサーの回顧録にある記述で、そこでは天皇はマッカーサーにこう言ったことになっています。
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動にたいする全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する連合国の裁決に委ねるためにおたずねしました」
ところが奥村勝蔵さんの手記をもとにした外務省の発表では、そんなことは言っていないことになっています。ですから現在でも、回想録はマッカーサーが勝手に書いたものと主張する人もいます。私はその外務省発表の時、朝日・毎日・読売の3紙から感想を求められ、ほぼ次のように答えました。毎日新聞に発表されたものを読み上げます。
「もし今回の記録(奥村報告のこと)が事実とすれば、マッカーサーが昭和天皇の人格に感動して日本の占領政策が決まったという事実が全否定されるわけで、日本の占領史を見直す必要がでてくる。だが、天皇が戦争責任に言及したという事実は、米側の記録ではマッカーサーの回顧録のみだけではなく、公的文書にも残っている。諸外国から天皇の戦争責任を追及する声の高かった時期に、天皇本人が戦争責任に言及した事実が漏れたり、記録に残ったりすることを恐れた政府筋が、あえて記録上で伏せた可能性が残る」

…アメリカ側の記録ではすべて言及したことになっているのです。特に、私のコメントにある「公的文書」とは、会議1ヶ月後の10月27日にGHQの政府顧問ジョージ・アチソンがアメリカ国務省に宛てた極秘電報で、秦郁彦さんが発掘したものですが、それにはこうあります。
「天皇は握手が終わると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、全く自分の意図ではなく、東條(英機)首相のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民のリーダーとして、国民のとったあらゆる行動に責任をもつつもりだ、と述べた」
…加えて、会見の8回目以降に通訳を務めた松井明さんが残したメモには、「奥村氏によれば、余りの事の重大さを考慮して記録から削除した」と記されてもいます。
さらに、皇太子(現天皇)の家庭教師を務めたバイニング夫人ーマッカーサーのお気に入りでしたーが残した日記を、東京新聞が発掘して昭和62年10月3日付紙面で抜粋を掲載しています。うち会見について、マッカーサーから聞いた話として書かれた12月7日の項を引用しますと、
元帥「戦争責任をおとりになるか」
天皇「その質問に答える前に、私のほうから話をしたい」
元帥「どうぞ、お話なさい」
天皇「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてもかまわない」
これは原文では、You may hang me.となっています。天皇は続けて、
「しかし、私は戦争を望んだことはなかった。なぜならば、私は戦争に勝てるとは思わなかったからだ。私は軍部に不信感をもっていた。そして私は戦争にならないようにできる限りのことをした」

マッカーサーはこの時ひどく驚き、心の底から感動したようです。…そして1回目の会談が終わった時、来訪時は出迎えもしなかったにもかかわらず、彼は天皇を車に乗り込むまで見送ったというのです。

これで、いよいよ日本の占領時代が本格的に始まるわけです。ともかく、天皇とマッカーサーの会談は無事に済んだ。むしろ打ち解けたというのでほっとしたところではあったのですが、基本的にはこれからどうなるかについてはだれも自信がありません。たったひとつあるのは、ポツダム宣言を受諾する際に日本側がつけた条件です。「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに」、つまり降伏後の日本における天皇の地位、国体が保証されることを確認したうえで受諾したことです。これに対する連合国側の返答は、「日本国の最終的の政治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」でした。…国民が選べる、というのが唯一の頼みの綱でした。まあ実際問題として、これはすべて裏切られるのですが、この時点では「国民の自由意志」に国家の運命はかかっていたのです。ただ、国家のかたちはそうであったとしても、天皇の身柄については確実ではない。ではどうなるか、それがこの後緊要の大焦点になるわけです。

ーーーーーーーーーーーーーーー

半藤一利著「昭和史 戦後篇」の抜粋です。

後は次回に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?