戦後4

その点について日本の指導者が知っているのは、戦争中にちょこちょこ発表されていた連合国の人たちの意見です。たとえば昭和19年10月、孫文の長男の孫科が「ミカドはその地位から去るべきである。・・・日本において、軍国主義と軍閥の力と天皇制とは、本質的に織り合わされているのだ」・・・

こういった意見が発表されていましたから、はたして連合国がどう出てくるかー天皇制をどうするのか、裕仁天皇の身柄をどうしようとしているのかーについて、日本のトップがいてもたってもいられないほど疑心暗鬼になっていたのです。
ちなみに、日本がまだ激しい抵抗を続けていた昭和20年6月の時点でのアメリカの世論はどうだったでしょう。・・・6月29日のギャロップ調査によると、
処刑せよ        33%
裁判にかける      17%
終身刑とする      11%
外国に追放する     9%
そのまま存続      4%
操り人形として利用する 3%
無回答         23%
・・・

戦争に負けた日本の都市は、どこにいっても焼け野原といっていい状態でした。
・・・
敗戦前から、米の配給は一人一日あたり2合1勺でした。・・・といっても、米が配給されれば御の字で、そうでない場合は換算してほかのものをもらう。これを「総合配給」といいまして、大豆、小麦粉、さつまいも、そしてそのツルだったり、・・・まあ、どうやって食うのかというようなものも配給されました。・・・
ではモノがまったくなかったというと、必ずしもそうではなくて、終戦直後、つまり8月や9月いっぱいはむしろ、かなり物資が出回ったんです。というのは、日本の軍部は本土決戦をするつもりでしたから、アメリカ来たれ、とじゅうぶんな備蓄をしていて、お米だろうが味噌だろうが醤油だろうが、日常品も含めてたくさん隠していたんです。それが放出されたのに加え、戦争中に世渡りのうまいやつがいて、正規のルートを通さずにこそこそ隠しておいた物資や食糧ー「隠退蔵物資」と呼びましたが、そういうものがどんどん出てきました。最初はそういった恩沢があって、なんとなしに口に入るものがあったのです。
ところが、そういうものまで減ってくると、必然的に始まったのが、戦後といえば誰もがすぐに思い浮かべる「闇市」です。・・・

8月15日に戦争が終わって3日後の18日、東京都内の主要新聞の朝日、毎日、読売報知にこんな広告が出ました。
「転換工場ならびに企業家に急告!平和産業の転換は勿論、其の出来上がり製品は当方自発の”適正価格”で大量引受に応ず。希望者は見本及び工場原価見積書を持参至急来談あれ。淀橋区角筈1の854新宿マーケット 関東尾津組」
戦争中、家内工業など、日本人はあらゆる家庭で、軍需産業の手伝いをしていろんなものを作っていました。アメリカのB29による空襲でも「日本じゅうが工場だから」と無差別攻撃の理由の一つにさえなったものです。いずれにしろお国のために尽くしていたのですが、それがある日パタっと止まってしまったわけです。すると、兵隊さん用の飯盒や水筒なんかも含めそれまで一生懸命に作っていた製品はすべて無駄になってしまった。・・・そういう状況の時に、この広告が出たのです。・・・そしてこの主がなんと、関東尾津組というテキ屋の親分でありました。
広告を見た人たちが、それぞれ、軍隊用のアルミニウムの皿やら何やら、まことにいろいろな製品をもっていきますと、尾津組は適正価格、といってもいくらか知りませんけど買い上げまして、それらを全部集めていきます。そして広告の出た2日後にはすでに、焼け跡だった新宿の今の東口広場辺りに、もちろんもう面影すらありませんが、裸電球がだーっと並び、その下に露天商がひしめいたのです。これが闇市のスタートでした。

作家の石川淳さんがこの時代を書いた「焼跡のイエス」というなかなかの傑作がありましたて、この中に闇市がたいへんうまく活写されています。一部分を読んでみます。
「けだし、ひとがなにかを恐れるということをけろりと忘れはててからもうずいぶん久しい。日付けの上ではつい最近の昭和16年ごろから数えてみただけでも、その歴史的意味ではたっぷり5千年にはなる。ことに猛火に焼かれた土地の、その跡にはえでた市場の中にまぎれこむと、前世紀から生き残りの、例の君子國の国民というつらつきは一人も見あたらず、たれもひょっくりこの土地に芽をふいてとたんに一人前に成り上がったいきおいで、新規発明の人間世界は今日ただいま当地の名産と観ぜられた」

しかし、とにかく生き延びなければなりません。日本人はまさに食うことに必死になりました。戦争に負けたくやしさとか、前途がどうなるのかという絶望感などは、早めに捨ててしましました。時の大蔵大臣の渋沢敬三が、外国人記者クラブで会見した時に、不用意に行ったんですね。
「米が1千万人分不足で、1千万人が餓死するかも知れぬ」
これが新聞に出ますと、皆、コノヤローてなもんで、その餓死1千万人の中に入ってたまるかとキリキリして、さらに食い物を探し求めました。

そういった食糧難は昭和24年ぐらいまで続きましたから、敗戦から2年後の昭和22年10月11日に山口良忠東京地裁判事も、この方は食糧統制法は無法だと常々主張していたのですが、とうとう栄養失調で餓死してしまいました。・・・以下の「遺書」のようなものが新聞に大々的に載ったのを読んで、皆が粛然として襟をただしたものです。
「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない。自分はどれほど苦しくともヤミ買い出しなんかは絶対にやらない。・・・自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、敢然、ヤミと戦って餓死するのだ」

作家の山田風太郎さんが、ちゃんと状況を認識して10月4日の日記に書いています。
「食糧事情の本来暗澹といわんよりも絶望的なり。このぶんでゆかば800万ないし1千万の餓死者の出ずるは必定といわる。米軍は食糧輸入を許さず冷然たり。『日本政府無為無策なり』と責められるれど政府如何すべき。先般の台風にて関西方面の稲作甚大の損害を受け、しかも飢えたる海外の邦人将兵濁流のごとく帰国せんとする。・・・最近、突如として日本人の平和国家転換ぶりに疑惑ありと的の論がかまびすし。これ日本人食わんと欲すればみずから政府を変革せよとの暗示にあらざるか。空腹か天皇か、この滑稽のごとくして滑稽にあらざる命題を日本人に課しおるにあらざるか」

8月15日から11月18日までに餓死した人の統計があります。東京の上野、四谷、愛宕の3警察署の管内で総計150人余りだそうです。・・・また神戸、京都、大阪、名古屋、横浜の5大都市で733人が餓死したということです。
大蔵大臣の渋沢さんは1千万人なんて言っていましたが、さすが日本人は巧みに生き抜いたというのか、自分の才覚において懸命に生き抜く術を知っていたというのか、どこかを探せば何か出てくるということで、死なずに済んだのでしょう。・・・
11月9日の朝日新聞に当時40歳の作家、石川達三さんが書いています。・・・
「日本に「政府」は無いのだ。少なくとも吾々の生存を保証するところの政府は存在しない。これ以上政府を頼って巷に餓死するものは愚者である。経済的には無政府状態にある今日、吾々の命をまもるのは、吾々の力だけだ」

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半藤一利氏著「昭和史 戦後篇」の抜粋です。
あとは次回に。

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