量産型悲劇のヒロインだったの。

某大学院大学で担当しているの留学生用日本語作文クラスの期末試験の採点をしました。

35人分のボリュームのある作文を一気に読むのは根気のいる作業です。
担当クラスの学生は20代前半のスリランカ、ネパール、ベトナムからの留学生が多いです。非漢字圏だし非アルファベット圏です。作文は、字は丸みを帯びがちだし、やたらとクルクルしています。

でも、留学生の作文を読むのはとても楽しいし、日本語教師という仕事をしている醍醐味でもあります。

期末テストの作文テーマは「私の家族」か「私の一日」のどちらかを選んで400字程度の作文を書くというもの。採点基準としては、授業で教えていた文型や作文用紙の使い方、漢字やひらがなの表記なんかも重要なのですが・・・それだけでは甲乙のつけがたい素敵な内容が溢れているのが作文です。

「私の家族」の作文では家族愛にあふれる作文ばかりで、なんだかラブレターを読んでいるような恥ずかしい気持ちになってしまうこともありました。
ストレートな言葉で母国の家族についての愛を綴っている文を読むと、私まで幸せな気持ちになって、なんだか羨ましいとさえ感じてしまいました。

物理的な距離が離れるとしても、家族間の信頼関係が強いからこそ子供を海外へ留学させた親、自分の夢や将来を見据えて留学をしているけれど常に家族の支えを感じている留学生、そんな様子が垣間見えると、私の心はほこほこと暖かくなるのです。


それと同時に、心がほこほこするような家族愛を感じると、現状から逃げて海外留学へ行きたいなぁ~なんて思ってしまうことが多々あった自分の10代後半を思い出して、お灸をすえてやりたい気持ちになってしまいました。

現状と向き合うことからの逃避を美化する多感な少女。彼女達が「悲劇のヒロイン」に憧れていているのは世の常なのかもしれません。彼女達は「誰も私のことを理解できない。私は孤独だから強い。捨てるものなど何もない。」と謳うのです。

村上春樹の「海辺のカフカ」に憧れて、心の中にだけ「友」を持ち、己を「世界一タフ」だと自称する。
寺山修司を崇拝して「さよならだけが人生さ」という言葉を胸に刻む。

どれもこれも、自から発せられた言葉ではなく大衆へ向けられた言葉なのに、あたかも自分だけがその思想をもっているのかのように感じては、人生を虚しいと糾弾する。量産型悲劇のヒロイン。


留学生たちの作文を読んでいると、量産型悲劇のヒロインだった自分が決して書くことの出来なかった文を書いていると痛感させられてしまいました。


きっと、自分は特別だという念に縛られている量産型悲劇のヒロインは視野が狭いので、特別な自分の存在が多数の中の1つだということを見過ごしがちなのです。そこに気がついたとき、きっと「相手のことを理解しよう。私は繋がりの中で生きているから強い。守るべきものがる。」と作文にだって書くことが出来るようになるのだと思うのです。

「私の一日」の作文では、アルバイトのことについて書いている学生が何人かいました。
私のクラスの留学生はコンビニでアルバイトをしている学生が多いのですが、シフトはみんな深夜帯。22時~5時ごろまで働いて、帰宅して朝ごはんを食べて就寝、14時までには起きて勉強して15時~20時までは学校というのが平均的な留学生の一日。

国民性もあってか、いつも陽気でニコニコしている留学生達。でも、その実、とても忙しい日々を送っています。彼らは、常に日本や日本人が大好きと言ってくれます。

とはいえ、母国を離れて生活をしているのだから多少は仕方がないとしても、ストレスを感じることもあるようです。
彼らは、日本で生活をしているのだから、基本的な日本語は理解できるけれども、話したり書いたりするのは苦手だったり、日本人的な文化背景の欠落から空気を読むような行動が苦手だったりします。
また、母国語が英語ではないので、日本人のジャパニーズイングリッシュで話しかけられるよりも、やさしい日本語で話しかけられた方が理解できるといいます。ただ、中上級クラスになっても助詞(「は」「の」「に」「を」「が」・・・)が苦手な留学生は多いです。

うっかり、日本人に「カード に 使いますか?」なんて言って、「日本語わからへんのな」といわれて悲しかったなんて話を聞いたこともあります。
もちろん、注意して正しい日本語を教えるような前向きなコミュニケーションであれば、留学生が傷つくことはないのですが、一刀両断の日本語警察のような人に遭遇すると「私の日本語は下手です・・・」と勉強のモチベーションを下げてしまう学生も無きにしも非ず・・・。
それから、バイト先でも学校でも日本人の友達が出来ないことを気にしている学生もいたりします。もはや、それは個人の問題な気もするのですが・・・。

思い返せば、私がケニアに住んでいたころ、嫌なことを言ったり、嫌なことをしてくるケニア人はいました。そういう記憶って印象深いものですが、それ以上に私を助けてくれたり、優しくしてくれたケニア人も大勢いたのです。

日本人である私が日本に住んでいたって、日本人相手に辛い思いをすることもあるし、癒されることだってある。


結局、国籍は関係なく、人は対人関係でストレスを抱える生き物だし、傷つけるのも、傷つけられるのも、優しくするのも、優しくされるのも「人間」だと思うのです。


留学生たちも、それはよくわかっているはずなんです。母国と日本の異なる文化に触れて、この世界を豊かに感じて生きてもらえると嬉しいと思うのです。

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