鏡面としてのプリパラ
はじめに
プリパラブーム。私は一体どう便乗すればいいのだろうか。みんなにライブブルーレイを貸し出したいのは山々だが、私は持っていない。というかアニメブルーレイも持っていない。持ってるのはキンプラのブルーレイだけ。そこで私は考えた。プリパラを見てくれた素晴らしい友人たちの、解釈の助けにはなれないだろうか、と。プリパラの面白さはすぐにわかるけど、プリパラのキャラクターの優れた描かれ方を体系的に理解できるだろうか??いやできない。難しい。俺も理解できない。一年くらいずっと悩んでいる。助けてくれ。早く沼から出してくれ。
ところでプリティーリズムレインボーライブって見た?
見たよね。知らない人向けに一言で解説すると
「めちゃくちゃ面白い」
プリティーリズムレインボーライブにおいて、主要キャラクターには必ず家庭環境が描かれていて、そのキャラクターの性格に説得力を持たせる要素になってる。家庭環境を重視する傾向はプリティーリズムオーロラドリームでも描かれていて、同様にキャラクターに奥行きを持たせてる。「こんな家庭で彼女は育ったのか」が逆に「こんな家庭で育ったのであれば、こんな性格を持ってもおかしくない。」と視聴者に思わせてくる。だから家庭環境がキャラクターを映す鏡として機能していると言える。
でもプリパラではほとんどこの家庭環境が描かれない。らぁらの実家がイタリアンだからなんだっていうんだ。
登場人物の家庭環境が物語に複雑に影響してくることは、プリパラにおいて全く見られない。ならば、プリパラのキャラクターたちにどうしてあんなに奥行きを感じるのか?どうして私はみれぃにいつも涙するのか?この物語において、彼女たちのキャラクターはどこから発現するのか?コレガワカラナイ。
SoLaMi♡SMILEとDressingPafé
というわけで順番に考えていきたい。さて、先ほど述べた通りプリパラではプリティーリズムレインボーライブにおける鏡面である「家庭環境」に重きが置かれていない。では、プリパラにおいてキャラクターの性質を映す鏡はなんだろう?
序盤、プリパラという環境に対してもっとも目を惹くもの、それは「変身」だ。
らぁら→声のデカイ馬鹿から魔法の歌声を持つアイドルに
みれぃ→眼鏡委員長から狂人に
そふぃ→魔剤をキメると気合いが入る
このようにそらみの各キャラクターは各人の思う自分の思う「ふさわしい姿」に変わる。なんかpixv百科事典で「プリパラに入ると成長して大人の姿になる」とか言ってるけど嘘じゃん。みれぃは明らかに「成長」ではない。公式発表だろうが嘘。ホモは嘘つき。公式はホモ。よってミルキィホームズはホモ。
同じくプリパラ1stシーズンで揃うドレシの連中を見るとその差は一目瞭然である。あいつらはマジで容姿が変化しない。なんでやねん。やっぱ成長する設定は嘘。
つまるところ、プリパラに入ると「こんな自分でいたい」と思う姿に変化する。ということだろう。みれぃは現実での自分の容姿について肯定的でありながら、プリパラではポップなアイドルになると言って狂気に落ちるぷり。
ならばプリパラは、自らの自己実現すべき姿を映す、鏡として機能していないだろうか?
プリパラという理想郷で、彼女たちは自己実現を果たす。その時プリパラは現実世界での自己の願望を映す鏡となる。すでに囲碁の世界で成功しているシオンや、ふたり揃うことによってもう完成しているドロシーとレオナは「すでに自己実現された現実の姿」でプリパラに入り得る。つまりプリパラという理想郷そのものが、キャラクターを映す鏡面として機能するのである。
「はばたけ、そふぃ!」の話
しかしプリパラに入った時点で自己実現がなされるわけではない。そふぃは梅干しによって変身し、よってプリパラではなく梅干しがファクターとなる。そしてこの特異な体質によって1クール目後半、心が死んでしまう。
閉じだそふぃの心のカギを渡したのはらぁらとみれぃであったが、しかし何が彼女の心の鍵だったのか。事実らぁらの心も閉じていた。そしてそれを開いたのもみれぃである。
やっぱみれぃってスゲェや。らぁらも同様に解放され、そしてそのらぁらがそふぃに「それでいいの?」と問いを投げる。らぁらの言葉は短いながらも、自身の経験から来る切実な言葉であったため、そふぃにも届いたのだろう。
彼女らはプリパラや梅干しを使って自己の外面を変身させることとトモダチに内面を高めてもらうことで自己実現を可能にしたのである。
鏡面を介した内面的作用、校長について
プリパラ内でトモダチを得て、トモダチによって内面を高めてもらうことは当然プリパラ外の自分にも作用する。プリパラに入り外面が取り繕われ、アイドルとしてトモダチと接することは、自身の内面を肯定することにも繋がっていく。
プリパラという空間で他者に受け入れてもらう経験こそが、彼女たちにとっての自己実現となっているのである。
このことを少し図にしてみたい。
さて、この章の本題であるグロリア校長の話をしよう。彼女は2クール目のラストを締めくくるエピソードを持つ人物であり、考察すべきキャラクターのひとりであろう。
24話での真相でわかる通り、彼女はプリパラでトモダチを手に入れている。先述したプリパラにおいて自己実現に必要な要素である変身とトモダチを手に入れながらも、そのトモダチを現実で失ったために自己実現が完成されなかった。
つまり、プリパラを通して現実世界において自己実現を果たすには、自己を肯定してくれるトモダチが現実世界における自身の内面に継続的に存在することが必要なのである。このときトモダチは端的に言えば自己を支える心理的支柱として機能する。複雑になってきたので、鏡面を例えにして言い換えてみよう。
鏡面に映った自分はお化粧をして、もっとも肯定できる自分である。鏡面の中の自分は素晴らしい友人の 隣でアイドルをしているが、ふと現実の自分の隣を見てみるとそこには誰もいない。
グロリア校長の経験はおよそこんなところだったのだろう。トモダチの存在はプリパラでの夢のような時間や輝いていた自分を証明する唯一の存在である。そのトモダチが”嘘”であれば、鏡面に映った肯定すべき自分自身すら嘘になり得、自己実現はありえない。
作用を受けた願い、ファルルのこと
ファルルが機能を停止したことは何を意味するのだろうか。
この引用は間違っていると言わざるを得ない。彼女がプリチケから産まれ、パキってはいけないと明言されていても、めが兄の発言において「パキるという行為はプリチケを傷つけること」だとは名言されていない。プリチケを傷つけたことが彼女のフリーズの直接の原因とは限らないのである。
めが兄の言葉を丁寧にくみ取るならば、ファルルがパキったことよりもファルルにトモダチがほしいと思う心のほうが問題だったと言える。パキったことは言わば機能停止のキッカケに過ぎない。このことを念頭に、先ほどの図にファルルを当てはめてみよう。
大前提としてファルルは少女たちの、”アイドルに憧れる気持ち”の集合体である。つまるところ「自己実現への欲求」の集合体である。そして前述の通りプリパラにおいて自己実現はトモダチを通して達成される。
”願い”が彼女そのものであるが故、”願い”が叶うこと、すなわち願いが消滅することは彼女の消滅を意味するのである。
結論
プリパラにおいて、プリパラこそが鏡面である。
プリパラというアニメにおいては、ほとんどがプリパラ空間内での物語である。
先述の通り、『プリティーリズム・レインボーライブ』においては家族を鏡面としていた。しかし鏡面を描くために時間を割く必要がある。
つまり、『プリパラ』においてこれを優れていると認めるべき点は、プリパラでのあらゆることが彼女たちの鏡面であることである。
キャラクターデザインから楽曲に至るまですべてが彼女らを表す助けとなる。
つまりキャラクターの鏡面を描くことそのものが物語のベースになっていくのである。
ギャクパートですらキャラクターの内面を掘り下げる意味を成す。
『プリパラ』はキャラアニメというジャンルの一種の結論であると言えるだろう。
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