古今集巻第十三 恋歌三 617、618番
なりひらの朝臣の家に侍りける女のもとに、よみてつかはしける
としゆきの朝臣
つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれてあふよしもなし
かの女にかはりて返しによめる
なりひらの朝臣
あさみこそ袖はひづらめ涙川身さへ流るときかばたのまむ
617番
業平朝臣の家に仕えている女性にあてて、詠んで送った歌
藤原敏行朝臣
ぼんやりと何も手につかず眺める長雨よりもたくさんの涙の川で、袖ばかりが濡れています、逢う手だても思いつきません
618番
この女に代って返歌として詠んだ歌
在原業平朝臣
浅いところなので袖だけが濡れるのでしょう、涙の川は体も流されると言うことなら、あなたを頼りにするのですけど
この話しは伊勢物語の百七段にあります。
むかし、あてなるをとこありけり。そのをとこのもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばもいひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案をかきて、かかせてやりけり。めでまどひにけり。さてをとこのよめる。
つれづれのながめにまさる涙かは袖のみひぢてあふよしもなし
返し、例のをとこ、女にかはりて、
あさみこそ袖はひづらめ涙かは身さへながると聞かば頼まむ
といへりければ、をとこいといたうめでて、今まで巻きて、文箱に入れてありとなむいふなる。をとこ、文おこせたり。得てのちのことなりけり。雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ、といへりければ、例のをとこ、女にかはりてよみてやらす。
かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も傘も取りあへで、しとどに濡れて惑ひ来にけり。
ざっくりとした内容は、
「長雨の涙の川で逢いに行けなくて袖が涙で濡れる」、と男が歌を送ると、
「浅いから袖しか濡れない、体ごと流れる涙の川ならあなたが頼りに思えるのに」、と女から返し(業平の代作)があり、男は歌に感心した。そうこうしているうちに、女とは逢うことができた。
別のときにまた雨が降って、男は「自分には運が無いのでこんなに雨が降って逢うことができない」と歌を送ると、
「あなたがわたしを思ってくれているのか、くれないのか聞き難いけれど、わたしの心を知る雨はこんなに降っている」、と女から返し(業平の代作)があり、男はずぶ濡れになりながら大急ぎで逢いにやってきた。
というものです。女の返歌は業平の代作ですが、女の気持ちを汲んだとても良い返しです。なので敏行は、代作と知りつつ感心もし、慌てて逢いにもやってきたのだと思います。