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重度障害者の親のメンタリティー

先日、あるショッピングモールで少し衝撃的な光景を目にした。20歳前後の青年が50代くらいの母親と思しき女性に連続的に暴力を振るう。ただし、青年は明らかに知的障害者。暴力と言っても「痛そう」ではあるが怪我をするほどではない。

お母様は「暴力はやめてよ!」と何度も抵抗するも、青年は奇声を上げながら一向にやめようとはしない。赤の他人は対応が難しい。小さい子供と2人だったということもあるが、仮に仲裁(?)に入るとして、具体的にどうすればいい?

「君、やめなさい!」と言って言うことを聞くだろうか?やめなければ抑えつけるべきだろうか?その際に彼に怪我をさせてしまったら?そこで収まったとしてその後どうする?このやり取りって日常的なものではないの?他人の介入は中途半端な刺激になるのでは?

なんてことで頭をぐるぐる巡らせながら見守るしかなく、落ち着き始めたところでその場を後にした。

この彼も、本来の定義では「発達障害」になるが、ツイッターなどで見られるそれとは違って、彼の場合は社会に参加できる見込みがほぼゼロだ。肉体的障害で自立できない人もたくさんいる。

私の関心事は、その障害者のお身内のメンタリティーにある。言葉で装飾して何となくかっこよく片付けることはできるが、実際問題、誤解を恐れずに言うなら「私であれば」ということを想像すると、そこには絶望しかない。

時々重度の障害を持つ子の親が心中を図る事件があるが、その行動だって誰が責められるか。一般的には、子供は自立に向かい、いずれ自分が世話をされることになるという大前提があるから子を育てるモチベーションになる。

ところが重度障害者の場合は、普通の子の何倍も手間と金がかかる上に、自立ができない。手間と金が何とかなっても、親が死んだらこの子はどうなるのか、という不安を持ったまま親は死ぬことになる。だからと言って、子が先に死ぬことを願うなんてことは本能的にも無理な話だ。

障害者のヘルパーをしている妻によれば、障害者の子を持つ親は皆強いと言う。が、それは元々強かったのではなく、どこかで良い意味で開き直るタイミングがあったのだろうと推察する。

こういった親子の最後の頼みは行政である。自分が死ぬ時、愛する子は行政に託すしかない。政治は何のためにあるのかと切に考える。「社会的弱者に寄り添う政治」みたいな綺麗なフレーズを使いたがる人は、本当に現場を知っているのだろうか。

皆が想像する通り、障害者施設も慢性的な人手不足だ。「好きな人だからこの仕事ができる」に頼っている。もし自分や家族が事故や病気で重度の障害者になったら、今の行政に任せて安心できるか。いやできない。


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