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「言論規律」とは

「言論規律」とは、最近私がよく使う言葉なんですが、私がテキトーに合成した熟語なんでググっても出てきません。頭の中にあるこの観念を一言で言い表せる単語がなかったので、こういう言葉を使っています。

で、どんな意味かというと、読んで字のまま「言論という行為の際に問題となる規律」のことなんですが、ここで言う「言論」とは「言語を問題解決の手段として使う場合の処理手順」という意味も含まれます。説明するとややこしいので例を挙げましょう。


《言論規律があるとき~!》
「安倍政権下における安保法制は憲法の恣意的解釈変更という重大な問題を抱えている」

《言論規律がないとき~…》
「安倍さん、感じ悪いよね」

これは「理論」と「感想/感覚」の違いですね。実に分かりやすい。

あるいは、同じ問題行動でも嫌いなAさんの時には批判するのに、好きなBさんがやった時には黙っている、なんてのも言論規律の問題です。

論題の中に小さな問題が複数ある時に、自分の都合の良いものだけを取り上げると言うやり方を「チェリーピッキング」なんて言いますが、これも言論規律の問題です。

X(旧ツイッター)のようなSNSなんかだと、「嫌いだから」と言う理由でブロックする、衝動的なツイートをして後から削除(ツイ消し)するなんてのも「言論規律がない」行動です。

断っておきますが、最後に関しては「悪い」と言っているわけではありません。他人に迷惑をかけない限り、どのような楽しみ方をしようが個人の自由ですから。
ただ、言論が重要な場面(例えば政治活動)においてこれをやってしまうと評価が下がります。政治家や行政マンになるとなおのこと、です。

例えば国会議員はその時点で16万人分の責任を負う「国民の代表」なので、自分の好き嫌いや批判・反論から目を背けるという意図でブロックするなんてのはもっての他です。さらに入閣(大臣)ともなれば、政党も関係なく1億2千万人の国民のために働く公僕であり、そこに行政から告知まで含まれているのにも関わらずブロックしまくるなんてのは、ハッキリ言ってまともな人間ではありません。※別に特定のあの人のことを言っているわけではありません。

最近では「松本人志性加害疑惑」騒動も、言論規律がめちゃくちゃだった好例ですね。こともあろうに公共の電波でタレント達が「松本が性加害を行った」という前提で話をしていたのですから、どうしようもありません。


小難しい話はいったん置いときまして、この言論規律という考え方を政治家や文化人ではなく、ただの一般人である自分の行動にどう活かすかというお話を。

以前ツイキャスで、「迷ったり悩んだり、あるいは感情的になったり落ち込んだりすることの多い人は、自分の“仕様書”(マニュアル、取説)を作っておくと良い」というお話をしたことがあります。

人類は極端に脳が肥大化した知的動物でありながら、その使い方をよく分かってない人がほとんどです。その高度な知能はただ問題解決のために考えるだけではなく、【社会的振る舞い】に相当大きなリソースを使っています。

知的動物であると同時に社会的動物でもある人間が抱えがちな悩みの多くは人間関係です。人類が木から降りて二足歩行を始めてから慢性的に持っている肩凝り・腰痛が「フィジカルな持病」であるとするなら、人間関係の悩みは人類が高度な社会性を形成してから慢性的に持っている「メンタル面での持病」と言えるでしょう。

そして何か「問題」が発生した際に、不器用な人はその都度頭を悩ませてメンタルを疲弊させてしまいます。かぎかっこで「問題」と書いたのは、そもそも本当は問題でもないことを問題だと思ってしまう勘違いが多いからです。問題でもない問題について頭を使うことは、実は「悩む」であって「考える」ではありません。「考える」はその先に解決法があるのですが、「悩む」はただひたすら心を煩わせているだけです。

では「解決法」とは何かと言うと、それが「自分の仕様書づくり」になります。

例えば、ネガティブなエアツイートを発見したら「自分のことではないか」と悩み、ク〇リプに感情的に反応してしまう。これらは自分で問題を作ってしまっている行為です。私の仕様書には「エアツイート、ク〇リプには反応しない」と書かれているので、悩みの前に問題が生じません。徹底的に無視するだけで済んでしまいます。

その「自分の仕様書」のうち、大部分を占めるのが「言論規律」です。「自分の仕様書」に含まれる「言論規律」の役割は、【一般論として使えるコミュニケーション手法】です。



表情を読み取ってくれるのは家族やごく近しい存在だけ。言葉というツールを手にした我々にとって、コミュニケーションの根幹は言葉です。特にSNSなどのデジタルコミュニティーにおいては表情を表現したり読み取ったりもできません(だからこそ皆「w」や顔文字を多用するのですが)。そこでお勧めなのは、「出力」の一歩手前に「監査装置」を置くことです。

●これって言って良いことだろうか
●主張にしかるべき根拠は添えてあるか
●誰かの批判を書こうとしてるけど、主語を置き替えたら自分にも当てはまることではないか
●「批判」という体で単なる誹謗中傷をしているだけではないか
●なぜ自分はこれを問題にしているのか。これを問題にするならあれについても語らないと不公正ではないか
●相手にのみ厳格なルールを適用し、自分には甘くないか
●これによって他の第三者まで傷つくかもしれないが、覚悟はあるか
●後からツイ消しなんていうみっともないことをしなくても良いか
●そもそもこれは一般投稿として書くようなことか。DMでも良いのではないか

こうやって書くといかにも仰々しく見えますが、実は当たり前のことを改めて書いてあるだけで、できる人は意識せずにできているもんです。


あ、私がめったに書かないnoteに書く時は、他に言いたいことがあってその注釈として書くことが多く、今回はまさにそれです。これと言ったオチも結論もありません。

では。







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