悪童日記

【期間限定無料】発話の自己言及+特殊な一人称──アゴタ・クリストフ『悪童日記』(堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)

 「文学理論ノート」でこんど取り上げるのは、アゴタ・クリストフのデビュー作である長篇小説『悪童日記』(1986。堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)です。


悪童日記

Agota KRISTOF, Le Grand Cahier, 1986.

『悪童日記』をあくまで独立・完結したものとして読む

 この小説は、これに続く『ふたりの証拠』(1988)、『第三の嘘』(1991)(いずれも堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)とともに3部作を構成しています。

ふたりの証拠

 作者に、この作品をもともとこのような構成にするつもりだったのかどうか、僕は知りません。あくまで印象ですが、独立したものとしてまず書いてしまってから、刊行後に続篇を思いついたような気がします。

第三の嘘

 それはどちらでもいいのですが、この3部作は順番に最後まで読むと、第1部である『悪童日記』に書かれていたことの、作中世界における地位が変わってしまうという代物です。第2部第3部のネタバレを避けようと思うとこういう言いかたになる。第1部は完全にネタバレする記事なんだけど。

 第1部だけは独立・完結した読みものとして読めるので、この記事では第1部のことだけを書きますね。

作文する〈ぼくら〉

 『悪童日記』は原題をLe Grand Cahier(『大きなノート』)といいます。これは戦争を背景とした小説です。

 戦時下、幼い双生児である〈ぼくら〉は両親から離れて、国境の祖母のもとに疎開している。
 「ぼくらの学習」と題する章によれば、〈ぼくら〉は、たがいにお題を出して作文をし、相手の作文を採点しあっています。

 ぼくらのうちの一人が言う。
「きみは、『おばあちゃんの家に到着する』という題で作文したまえ」
 もう一人が言う。
「きみは、『ぼくらの労働』という題で作文したまえ」〔…〕
 二時間後、ぼくらは用紙を交換し、辞典を参照して互いに相手の綴字の誤りを正し、頁の下の余白に、「良」または「不可」と記す。「不可」ならその作文は火に投じ、次回の演習でふたたび同じ主題に挑戦する。「良」なら、その作文を〈大きなノート〉に清書する。
 「良」か「不可」かを判定する基準として、ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。〔41-42頁〕

 相手のチェックを経た断片だけが〈大きなノート〉(作品の題同様、大文字でle Grand Cahierと書かれている)に清書されることになっています。双子はいわば、お互いに相手の編集者をつとめているわけです。

 この『悪童日記』と題する小説自体もまた、〈ぼくら〉の語りによる短い断片の集積です。
 そして作品の原題は『大きなノート』であり、そのノートとは、「ぼくらの学習」と題する章などで言及されたその〈大きなノート〉そのものです。

自己言及的発話

 ということは、僕ら読者が読んでいる小説の本文は、双子がお互いにチェックしあった相互編集の結果そのものなのでしょうか?
 つまりこの小説は、幼い双生児の戦争体験を、ふたりが一冊の大きなノートに書き綴った日記(という体裁)で、僕ら読者はそれをいわば盗み読みしているという体裁になっているわけです。

 こういうふうに、「この発話(文章など)が作られて(書かれて、語られて)いるということを、発話自体が明記していること」つまり「発話状況の明示」は、自己言及的な発話、ということになります。

 ここで自己言及といいましたが、このばあいの自己とは発信者ではなく発話自体をさします。
 だから、
「私ってどこ出身で、こんな性格で、あれが好きで、これが苦手で、…」
といくら自分語り(通常の意味での自己言及)をしても自己言及的な発話にはなりませんが、
「ごめん、ちょっときょう風邪気味で声がひどくて…」
「全部話すとちょっと長くなるけど、いいかな?」
「漢字でどう書くのか思い出せないので平仮名で書きます、ごめん」
などと自分の語りの状況について言及すれば、それは自己言及的発話ということになるのです。

 「ぼくらの学習」の章は、この〈大きなノート〉の作文(=読者が読んでいる小説『悪童日記』の本文?)がどのように書かれているかを明記する、自己言及的な発話になっているということが言えるわけですね。

自己申告との相違点

 しかし、
〈大きなノート〉の作文=読者が読んでいる小説『悪童日記』の本文
と、そう簡単に決めつけるのはどうかな。双子の作文相方チェックシステム」について書いた箇所を見てみましょう。

 「良」か「不可」かを判定する基準として、ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。〔…〕
 たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「人びとはおばあちゃんを〈魔女〉と呼ぶ」と書くことは許されている。
 〔…〕
 同じように、もしぼくらが「従卒は親切だ」と書けば、それは一個の真実ではない。というのは、もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるのかもしれないからだ。だから、ぼくらは単に、「従卒はぼくらに毛布をくれる」と書く。〔42-43頁〕

 文中の〈従卒〉というのは、祖母の家を宿にしている外国(〈ぼくら〉の国を支配している国)の軍人の従卒で、「ぼくらの学習」の数章前で双子に軍用毛布を与えています。

 さて、「ぼくらの学習」の章には、作文に主観を交えないために、〈おばあちゃんは魔女に似ている〉ではなく〈人びとはおばあちゃんを〈魔女〉と呼ぶ〉〔Les gens appellent Grand-Mère la Sorcière.〕と書き、〈従卒は親切だ〉ではなく〈従卒はぼくらに毛布をくれる〉〔L’ordonnance nous donne des couvertures.〕と書くのが〈大きなノート〉の方針だ、と書いてあります。

 しかし、『悪童日記』本文の該当箇所の文は必ずしも一字一句厳密に同じではなく、

人びとは彼女を〈魔女〉と呼ぶ〔13頁。これにかぎり拙訳。太字強調引用者〕〔Les gens l'appellent la Sorcière.〕
灰色の軍用毛布を二枚持ってきてくれる〔29頁。堀茂樹訳。太字強調引用者〕〔Il nous apporte deux couvertures militaires grises.〕

となっています。それに先述「ぼくらの労働」は『悪童日記』ではただ「労働」(15頁)となっているのです(「おばあちゃんの家に到着する」の章はある[5頁])。

 この程度の字句の変更を誤差の範囲と見なして軽視していいのかどうか、悩ましいところですが、ここのところはそうしておきましょう。

地の文における一人称単数の不在

 『悪童日記』の地の文は、いわゆる「一人称」の語りです。
 ですが、地の文には〈ぼくら〉という複数は出てきても単数の〈ぼく〉(兄弟と自分の違いを言い立てる印)はまったく登場しません。

 ふたりが別行動をとるときには、

ぼくらのうちの一人が彼女の傍らに残り、もう一人が医者を呼びに行く。〔249頁〕

のように書き、両者の交換可能性、というより区別不能性を、徹底して強調することになっています。

 通常なら、
「弟が彼女の傍らに残り、ぼくが医者を呼びに行く」
などとなるはずですよね。
 この小説の地の文は基本的に直説法現在形で書かれているので、英語で言えば、自分のしたことすらも三人称単数現在形の動詞語尾-sがついているような形になると考えていいでしょう。

 一人称複数の語りで一人称単数がない、というのはマリオ・バルガス・リョサの中篇小説『小犬たち』(一九六七。鈴木恵子訳で集英社文庫『ラテンアメリカ五人集』に所収)を思わせるものですが、あちらのほうはもっと人数が多くて、三人称単数の固有名が出てきています。


ラテンアメリカ五人集

 さて、この作品は、
「ストーリーがおもしろい」
「ドライな語り口に痺れる」
「キャラクターとしての双子にたいして熱くなれる」
「戦争小説として説得力がある」
など、いろいろな方面で人気があるのですが、僕としては先述の、
「自己言及的な発話」+「特殊な一人称の語り」の組み合わせがとてもスリリングなのです。

 それがどうスリリングなのかは、次回整理して書きますね。次回はいよいよ全面的にネタバレして分析していきますので、未読のかたは『悪童日記』読んでおいてください。

(つづく)

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