【期間限定無料】〈彼〉は殺害されたのか?──フリオ・コルタサル「続いている公園」(4)

 コルタサルの「続いている公園」についての記事、4回めです。

〈樫の木〉vs.〈ポプラ並木〉?

 ところで、「続いている公園」の冒頭の農場経営者の読書場面では、

樫の木の公園に面した静かな書斎で本に戻った。
大窓のむこうでは夕暮れの大気が樫の木の下で戯れている。

と書かれていて、いっぽう結末近く、作中作の暗殺者がターゲットの屋敷に忍び寄る場面では、

あの屋敷に通じるポプラ並木が浮かび上がった。

との記述が見られます。
「〈樫の木〉と〈ポプラ並木〉では木の種類が違う」
という指摘が考えられます。

遊戯の終わり

 しかしこの疑惑は、原文に当たると氷解します。

遊戯の終わり原書

 訳者・木村榮一さんが〈あの屋敷に通じるポプラ並木が浮かび上がった〉と訳した部分は、

hasta distinguir en la bruma malva del crepúsculo la alameda que llevaba a la casa.

で、〈ポプラ並木〉と訳された語の原語は"la alameda"(並木道)。

 つまり作者は樹木の種類を特定せず、「並木道」としか書いていないのです(このことをご教示くださったのが柳原孝敦先生だったか、野谷文昭先生だったか、忘れてしまいました……)。

 これについては、なぜ木村さんがこのような訳語を選んだのか、疑問が残ります。
 あるいはアルゼンチンでは並木道といえばポプラのそれが一般的であるとかそういった背景があるのかもしれませんが、いずれにせよ原文を読むかぎり、農場経営者のそばにある公園の木と、作中作のターゲットに家に通じる道の並木との種類が違うという記述はないと判断してよいと思います

続いている「公園」はいくつあるのか?

 ちなみに冒頭近くで〈彼〉が読書してる場所は〈公園に面した静かな書斎〉なんですね。
 いっぽう、小説内小説の、殺人を企む男が侵入する場面では、公園という言葉は直接出てきません。

 でも、「続いている公園」("Continuidad de los parques")という題のなかで、公園という言葉はじつは複数形(los parques)なのです。公園はひとつじゃないってこと。
 「続いている公園」の原題を正確に訳すと「公園どうしの連続(隣接)性」という意味になるんです。

 〈彼〉の窓から見える公園のほかに、小説内小説の殺人志望者が横切る公園があって、そのふたつの公園はつながっている。
 ケンジントンガーデンズとハイドパークみたいに、横に隣接している?
 いや、そのふたつの公園で、作中の現実世界(建物で言えば1階)と作中作の世界(建物で言えば2階)とがつながっている。むしろ、いわば階層をなして重なっているのだろうか?

〈小説を読んでいる男〉は殺されたのか?

 さて、その〈小説を読んでいる男〉は殺されたのか?

 「続いている公園」という短篇小説は、小説内小説の登場人物がいままさに殺害を実行せんとナイフの柄に手をかけたところで終わっています。だから本文にはこの殺人計画の成否=〈小説を読んでいる男〉の安否は書かれていない。

 だからこのあと、この襲撃計画は成功するかもしれない。
 いっぽう、共犯者に見えた女が、じつは裏切っていて、襲撃者の到来を〈小説を読んでいる男〉に知らせておいたとか、あるいは〈小説を読んでいる男〉が『ベスト・キッド』の老師みたいな武術の達人で異変の気配を察知したとかで、襲ってきた男があっさり押さえつけてしまうかもしれないわけです。

(そこに目をつけたのがエリック・マコーマックの短篇集『隠し部屋を査察して』(1987。増田まもる訳、創元推理文庫)に収録されてる掌篇小説「フーガ」
題辞にコルタサルの引用があるとおり、「フーガ」は「続いている公園」の二次創作なのです)

隠し部屋を査察して

殺害のターゲットはに出てきたのは〈彼〉なのか?

 結局のところ、「続いている公園」の冒頭の、小説を読んでいる〈彼〉という語と、最後に出てくる〈小説を読んでいる男〉という語は、同一人物をさししめしているのでしょうか?

 常識的に考えるなら、これはかぎりなくクロに近い、ということになりましょう。

 〈彼〉が読書中に、本のなかに文字どおり入りこんでしまったのか、それとも作中人物が本の世界のなかから出てきたのかはわかりませんが、作中人物の殺害計画のターゲットはかなりの確率で、ほかでもないこの小説を読んでいる〈彼〉でありそうです。

 とはいえ、地の文がはっきりそうだと言ってない、だから別人だ、と言い張る可能性を100%排除することはできないのです。

 つまり、最後に狙われるターゲットは

かなりの高確率で、
(a)その小説を読んでいる〈彼〉当人
だけど、
(b)〈彼〉が読んでいる小説のなかに出てくる、たまたま彼と同じような状況で本を読んでいる一登場人物
である可能性を100%排除することはできない

ということになります。

 そしてどちらか一方だけが正解だというわけでもないと思いつつ、僕は、(b)で考えるほうが好きだったりするのです。

 つまり、
「作中作で最後に狙われるターゲットは、あくまで作中作の登場人物であって、作中作を読んでいる〈彼〉ではない」
と考えたいのです。

 いまからその、僕の好みの理由を書きます。

〈彼〉がターゲットではないとしたら

 「続いている公園」で、もし前述(a)のように、冒頭の〈彼〉イコール〈小説を読んでいる男〉だとしたら、「このあとは書いてないからわからない」ということになるでしょう。

 ところが、前述(b)のように、あくまで冒頭の〈彼〉という語は作中の現実世界にいる人物を指し示し、〈小説を読んでいる男〉という語は作中作の世界にいる人物を指し示しているとしたら、どうなるでしょうか?

 そうなると、この小説の構造はきわめてシンプルな、しかし奇妙なものになります。
 つまり、冒頭で作中の現実を記述し、途中から作中作の世界を記述して、作中の現実世界に戻らないまま尻切れとんぼに終わってしまう短篇、ということになるわけです。

 なぜそんな終わりかたをしてしまったのか? これがこの「文学理論ノート」の続きで考えることです。

(↓こちらへつづく)


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