フィクションの背後に事実を求める癖

 前回書いたように、「ほんとう」(正確なノンフィクション)と「嘘・間違い」(不正確なノンフィクション)との区別が人類25万年の生物的欲求に根ざしているのにたいして、ノンフィクション(正確であれ不正確であれ)とフィクションとの区別は、長く見積もっても二千数百年のあいだ、人間が特定の社会のもとで断続的にやってきた文化的な慣習、約束ごとにすぎません。

 ですから僕たちは、身体の文化的な部分ではフィクションをフィクションとして受容していながら、その背後に、「そのもととなった現実」を見たくなってしまう人情が根強く残っています。
 人情と書きましたが、これは前述のとおり動物的な欲求にほかなりません。

 たとえばwebちくま連載の第1回で書いたように、歴史小説は作り話であるにもかかわらず、読者は純粋にストーリーのおもしろさを追求するのではなく、現実の歴史上のその時代、その地域のことを読みたくてそれを読むことが多いのではないでしょうか。

 自己の体験を直接題材にして書く「私小説」、現実のできごとを調査・取材して書く「記録小説」(吉村昭の『三陸海岸大津波』)や「ノンフィクションノヴェル」(トルーマン・カポーティの『冷血』、佐木隆三の『復讐するは我にあり』)といった分野があり、その作例には登場人物の名前が全面的に本名のものもあれば、登場人物名を実在のモデルと違う偽名にしただけの「ほとんど実話」も多いようです。

 「私小説」や「記録小説」「ノンフィクションノヴェル」は、小説と銘打って販売されていますが、読者の興味の焦点はおそらく、「現実になにがあったのか」にあります。

 たとえばデフォーの『ペスト』という作品はいちおう小説というネーミングで流通しています。
 しかしそれを読む読者は、ポウが「早まった埋葬」の冒頭で述べたように、そこに書かれていることが1665年のロンドンのペスト大流行の事実に忠実であるらしいということを念頭に置いているから感動しているのだ、とも言えます。
「こんなことが起こったのか……」
という感動です。

 小説という表現形式は一般にフィクションとされているはずです。そしてフィクションというのは作り話で、「実在の人物・団体との類似は偶然のものである」ということになっています。

 けれど、わざわざそう断っておかなければならなかった、という見かたもできます。あくまで、建前なのかもしれません。なにしろ「モデル小説」というものがあるくらいです。フィクションと称しているのに、実話として(ノンフィクション的に)読んでしまうことがある、というわけです。

 筒井康隆の掌篇小説「無人警察」やTVドラマ、ドラマ仕立ての企業広告のなかの特定の表現が、特定の属性を持つ人への差別と解釈されて批判されたこともあります。

 実在の人物たちをモデルとする「モデル小説」のばあい、しばしばプライヴァシー問題が起こります。柳美里の『石に泳ぐ魚』と車谷長吉の『刑務所の裏』はいずれも作中人物のモデルとなった実在の人物に提訴されていますが、前者はプライヴァシーを侵害された(書かれたくない事実を書かれた)という理由で、後者は逆に事実と異なることを書かれたという正反対の理由で訴えられたのでした。

 事実に合致しても、違っていても提訴される。なぜでしょうか?
 たとえその文章が小説と銘打っていても、書かれたとおりの事実がそのままの形で現実に存在すると読者に思われてしまうことがあるからです。
 知られたくない事実を書かれたモデルは、読者にそれを知られることを嫌い、事実と違うことを書かれたモデルは、読者がその記述を事実と信じてしまうことを恐れるのです。

 前に書いた喩えを使うと、お笑い番組は観るけどニュース番組は観ないので米国大統領の姿を見る経験があまりない人が、芸人がやっている米国大統領のものまねなら見ているので、現実の大統領を「そういう人」だと思ってしまうこと、に相当するかもしれません。
 僕も数年前、僕が観ていない『半沢直樹』の登場人物のものまね(しかも、「似てない」ことが笑いを生んでいるらしい)を出川哲朗さんがやっているのはよく見たので、僕のなかでのそのドラマは完全に「出川さんのアレ」になってしまっています。

 大江健三郎の「政治少年死す セヴンティーン第二部」、深沢七郎の「風流夢譚」、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』といった小説は、作者や版元や翻訳者が脅迫やテロの対象となりました。

 いずれの攻撃者も、作品がフィクションであることは承知のうえで、しかしその作品が天皇や神を冒瀆したと考えたようです。

 これらの加害者を加害者と呼んでいるのは、傍観者である僕たちが組み上げたストーリーのなかの話であって、彼ら自身は主観的には、自分のことを被害者と意味づけるストーリーを生きていたはずです。この件については新著『物語は人生を救うのか』第6章第2節の最後でふたたび取り上げます。
 これらのテロや脅迫事件のこと、とりわけその加害者のことを考えることは、そのまま、

のような、フィクション作品におけるある種の表現行為を道徳的に掣肘しようとする人の感情を知るうえでも役に立ちます。

 『物語は人生を救うのか』刊行直前キャンペーンは、予定どおりここでいったんひと休みに入ります。平日の毎日更新におつきあいいただき、ありがとうございました。本もよろしくです。

(ひとまず了。書くことを思いついたら続きます)

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