フィクションとは近代的な約定である

 現在、僕たちはフィクションをフィクションとして受容しています。少なくとも、身体の文化的な部分では、そのように自覚しています。
 しかしそもそも、作り話がみずから作り話であることを謳って流通するというフィクションの伝達状況が、人類初期からずっとあったとは思えません。

 神話とか伝説とかいったものは、いかにファンタジー小説に似ていても、当初は特殊で象徴的な「実話」の一種として流通していたと思われます。

 作り話が演劇的パフォーマンス抜きで、みずから作り話であることを謳って流通するという伝達形態は、なんらかの条件を満たした社会・文化のもとにようやく成立するようです。
 残された小説の古典から推測するに、1-2世紀のローマ帝国都市部、唐代都市部、アッバース朝のバグダード、平安京などはその要件を満たしていたと考えられます。政権交代などがあるとその要件は失われます。

 現在の僕たちがフィクションをフィクションとして読んでいるのは、ルネサンス以後のヨーロッパの文化条件がグローバル規模に拡大した結果だと言えます。

 webちくま連載で書いたように、「実話であること」それ自体が報告価値を持ちます。
 それは、動物としての人間が生物レヴェルで「ほんとう」と「嘘」を区別して生きているからです。動物に目というものができて世界を光学的に認知するようになって以来、擬態やフェイントという行動が生まれ、「ほんとう」と「嘘」を区別しようとすることもまた多くの動物にとって必要なことになりました(アンドリュー・パーカー『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』渡辺政隆+今西康子訳、草思社)。

 「ほんとう」(正確なノンフィクション)と「嘘・間違い」(不正確なノンフィクション)との区別が人類25万年の生物的欲求に根ざしているのにたいして、ノンフィクション(正確であれ不正確であれ)とフィクションとの区別は、長く見積もっても二千数百年のあいだ、人間が特定の社会のもとで断続的にやってきた文化的な慣習、約束ごとにすぎません。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?