キャッチャー_イン_ザ_ライ

余は如何にして読まず嫌いとなりし乎

 この文章は、近日配信予定の有料マガジン『読まず嫌いが世界〈文學〉を読んでみた』の予告です。
 本記事は¥100だけど、有料エリアにはとくになにも書いていません。

 僕は筋金入りの読まず嫌いだった。
 宮澤賢治、太宰治、サリンジャー。詩歌なら石川啄木も中原中也も、もう全部がアレルゲンだった。ごめんなさい先生。残していいですか。

 一三歳の夏、小説のおもしろさに目覚めた。きっかけは、このさいどうでもいい。
 目覚めてしばらくたつと、小説には自分が興味を持てない分野がいっぱいあることに気づいた。

ジャンル小説が嫌い

 まずミステリが嫌いだった。
 人がどんどん殺されていく部分は楽しいのに、謎解きの部分は、これまでばら撒いてきたすべての謎を律儀に拾っていくだけで、なんだか消化試合みたいで退屈した。

 SF小説が嫌いだった。
 けっこうめんどくさい小説だと思った。SFは小説よりアニメや映画や漫画のほうがいい、と思って読まなくなった。

 時代小説が嫌いだった。
 それこそTVの《必殺シリーズ》のほうがずっと好きだった。

 歴史小説が嫌いだった。
 歴史上の人名が覚えられず、尊敬する人物に織田信長や坂本龍馬を挙げる人の気が知れなかった。

 伝奇小説は最初興味がなかったけれど、だんだん好きになった。
 でもすぐに世のなかが伝奇小説ブームになって、食傷した。

 ホラー小説は好きだった。
 いまでもきっと好きだ。

 ファンタジー小説も、最初は好きだった。
 けれど、白人か白人に似た人たちしかでてこないので、こんなものを読むのは垢抜けない女だけだと思ってやめてしまった。これも映画のほうがいいと思った。

 ライトノベルという言葉はまだなかったが、それに相当する分野はあった。漫画に似ていた。だったら漫画のほうがいい。

純文学も嫌い

 じゃあ純文学はどうなのか。
 これも得意ではなかった。

 志賀直哉の『城の崎にて』(一九一七。『城の崎にて 小僧の神様』所収、角川文庫)は、交通事故に遭った作家が湯治に行って、そこで小動物の死を目撃する。それだけの話。私小説だ。
 たしか若年層むけの、アンソロジーだか文学全集だかでたまたま読んだ。国語教科書にも載っているらしい。

 名作文学とは人生観を開陳してくる小説なのか。だったらめんどくさい、と思った。
 志賀直哉を退屈に感じたというより、そういう人生観を若者に読ませようとした編者の教育的配慮を退屈に感じた。
 当時の僕はカツ丼を必要としていたから、お茶漬けの味がわからなかったのだ。

青春も恋愛も嫌いだった

 渋い私小説路線に輪をかけて、青春っぽい文学が苦手だった。
 理由は気恥ずかしいから。

 青春は文学の大好物。だから青春が食べられないと、それだけで近代文学のかなりの部分が読まず嫌いの対象となる。
 『ハムレット』『若きヴェルテルの悩み』『赤と黒』『車輪の下』『狭き門』『マルテの手記』『恐るべき子どもたち』『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『悲しみよ こんにちは』、全部アウト、読まず嫌いだった。


 青春小説の主題なんてだいたい「他人に理解されないこと」だ。それが文学になってみんなに読まれている。
 ということは、お前ら主人公どもの悩みなんてみんなに理解されてるじゃないか。そういう甘え上手なヤツがモテるんだよ結局。

 青春と言えば恋愛。
 恋愛も、小説のメインディッシュになるとしんどい。

 さきに例示した青春小説の半分以上に恋愛が出てくる。
 好きな女子にどう接するべきなのか俺本人がわからずじたばたしてるのに、いまさら小説の主人公がじたばたしてるのを見たってしょうがないじゃないか。

その読まず嫌いが世界〈文學〉を読んでみた

 私小説も青春小説も恋愛小説も、やっぱり人生観を開陳してくる。
 当時の僕は、本に人生観を開陳されると、「文学臭が強い」と苦手に思って、読まず嫌いを通した。
 文学臭を避けて、人生観を開陳してくることがなさそうな小説ばかり選んで読んだ。名作と言われるもののほとんどを敬遠した。

 こうして僕は、押しも押されもしない筋金入りの読まず嫌いとなっていった。

 だから、日本や世界の文学で名作と呼ばれるものを読んだのはずっとあとの話だ。
 本マガジンは、その読まず嫌いが、さまざまな〈文學〉作品を読んでいった記録である(なぜここだけ旧漢字で〈文學〉と書いたのか、については、おいおい説明する予定)。
 多数の作品と「和解」したものの、まだ「係争中」の物件もある。

 本マガジンでは「名作とはなにか」という定義は試みない。
 「名作」と現在見なされているもの、あるいはかつて見なされていたもの、あるいはさらに、みなされそこなって、一度も名作呼ばわりされたことのないもの。
 そういった〈文學〉作品とどうつきあってみようか、という、僕の人体実験トライアルの記録である。
 同時に、文学理論にかんする情報も埋めこんでいくので、『人はなぜ物語を求めるのか』およびそのSeason 2である『物語は人生を救うのか』(いずれもちくまプリマー新書)で僕のことを知ってくれた読者にも、おもしろがっていただけると嬉しい。

近日配信予定のマガジンについて

 本マガジンのもととなっているのは、ちょうど一〇年前に出た拙著『読まず嫌い。』(角川書店)だ。
 ここまでの文章は、その本の「はじめに」の部分を少しだけ手直ししたもの。

 これは、同社の月刊《野性時代》(のちの《小説野性時代》)二〇〇八年五月号から翌年五月号まで、途中一回の休載を挟んで一二回連載した「読まず嫌い。 名作入門五秒前」を改稿して、二〇〇九年秋に刊行したもの。
 同社の郡司珠子さんには企画と書籍化で、三宅信哉さんには連載で、果てしなくお世話になった。ありがとうございます!

 こんな地味な本だけど、九年半かけて、ようやく売り切った。
 そこで、同社の諒解を得て、一〇年ぶりに手を入れてここで増補・公開することにした。

 マガジンの題は、『読まず嫌いが世界〈文學〉を読んでみた』で、これはその本をもとにしてはいるけれど、言ってみれば『読まず嫌い。増補「解体」版』だ。
 なぜ増補「改訂」版ではないのかについても、おいおい説明します。では遠からず!

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