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その、お前の言ってる「コミュニティ」ってどういう意味なん?

どもども。青木です。

ここ最近チーム内で「コミュニティコミュニティっていうけども、コミュニティってそもそもなんだっけ?funky jumpにとってのコミュニティってなんなんだっけ?」ということで色々な学者が提唱してきた集団に対する洞察を持ってきて”原義的にコミュニティとはいったいなんなのか"を浮き彫りにしていく作業をしました。そのシェアをしようと思います。

テンニース(1855-1936 ドイツ)

あらゆる社会的相互作用や集団を人間の思考と意思とが作ったものとして考え、その中で実在的・自然的な本質意思(ゲマインシャフト)と観念的・作為的な選択意思(ゲゼルシャフト)という集団類型に分ける社会進化論を提唱。

ゲマインシャフト(共同社会):自然な「本質意志」に基づき、結合を本質とする基礎的集団。生活全体で密接に関わり合う全面的関係を指し、自然発生的な家族や近隣の村落など前近代的な社会類型。
ゲゼルシャフト(利益社会):人為的な「選択意志」にもとづき分離を本質とする機能的集団。間接的な接触を土台とした部分的な関係であり、典型的には人為的に形成される企業、官庁、学校がある。近代的な社会類型。

さて、いきなり難しいドイツ語が出てきました。
ここではコミュニティの話は出てきませんが後から出てくるマッキーヴァーの前段になるので触れておきます。ポイントとしては自然にできる集団なのか、人為的にできる集団かを抑えておくと良いでしょう。

クーリー(1864-1929アメリカ)

クーリーは自我の形成において自ら持つものというよりはむしろ他人との共存する社会の中で育まれるものとしています。そこで”共存する社会"の例として第一次集団と第二次集団という概念がでてきます。

第一次集団:家族や遊び仲間、近隣集団など、幼少期の基礎的パーソナリティを形成する際に関わる集団。
第二次集団:意図的に形成される、間接的で非人格制を特質とする集団。

こんな感じ。先に挙げたテンニースのゲマインシャフトとゲゼルシャフトの概念が集団そのものがどんな特性を持っているか、ということにフォーカスしたのに対してこちらは集団に属する個人から見た集団にフォーカスしています。以て非なる感じ、わかりますでしょうか?

さて次。”コミュニティ"を定義した人の登場です。

マッキーヴァー(1882~1970 アメリカ)

コミュニティ論で著名なマッキーヴァーです。彼は自然科学的社会学・統計主義を批判し、社会学の対象を社会現象、人間現象としてそのなかでの社会心理学的な関係が人間行動の背後に存在するという点に着目しています。

コミュニティ:同じ場所に住んで、同じ習慣や歴史、伝統を持った『われわれ意識』に基づく共同体。
アソシエーション:学校や企業、病院、宗教集団、国家のように、人々が特定の利益や関心に基づいて人為的に作る機能集団。

マッキーヴァーの論で特徴的なところはテンニースのゲマインシャフト、ゲゼルシャフトにみられた前近代的、近代的、のような時代類型というよりはむしろ、人々にとって普遍的であってコミュニティ、アソシエーションが同時に存在し、動的に絡みっている、という論にしたのがポイントです。

また、アソシエーションを人為的に作る機能集団、としたところにも注目です。アソシエーションは人為的に作るためにそれぞれ組織としての目的が存在するのですが、コミュニティは人為的に作ることができないため目的よりも『われわれ意識』が先行します。つまり、目的ありきのコミュニティは原義的にはアソシエーションである、といえます。

さて、ここまでの学者が生きていた頃の社会とは大きく形が変わってきています。そこでもう少し時代を下って最近の学者にも触れてみようと思います。

カステル(1942~ アメリカ)

カステルはクーリーの一次集団と二次集団、そしてマッキーヴァーのアソシエーションに加えた新たな”三次的関係”を提唱しています。

家族やコミュニティのような「一次的関係」からアソシエーションに表現される「二次的関係」への移行を経て、近年では「私」中心のネットワークである「三次的関係」が支配的なパターンとなりつつある。伝統的家族の解体、労働過程の関係の個人化、新しい都市化のパターンなどを背景に、集団や組織よりも「ネットワーク化された個人主義」と表現できるような社会性の様式が出現しつつあるといえよう。

さて、こちらのnoteの本題であるコミュニティとはそもそもなんなのか。
カステルのいう、「三次的関係」が昨今ちまたで使われている、いわゆる"コミュニティ”なんだろうなと思っています。

コミュニティの原義としては
1. 人為的に選ぶことができない
2. 組織とは異なり目的ありきではない
3. コミュニティは形成過程に着眼した際の集団の呼称であり、機能の名称ではない。

この辺りが僕らが勉強して「コミュニティってこんなんかー」となったところです。多分違うところも多いのでしょう。
また、別に「お前コミュニティコミュニティって言ってるけど、その使い方間違ってるからな?」みたいなことを言うつもりもないしふわっとした今の世の中に溢れる"コミュニティ”もきっと僕はこれからも使い続けていくと思います。『「私」中心のネットワーク』もそれはそれで伝わらない気がするし。

ちなみに弊社funky jumpではコミュニティを「相互に課題解決を行う人々の有機的な集まり」としています。現状ね。

コミュニティを研究し続けてきた人たちにあたって見えてくることがあるのではないか。今回はそんな記事でした。

長かったですが最後までご覧いただきありがとうございました。

社会関係資本ももう一回くらいまとめ直したい。。


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