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伊達政宗と泰山府君祭

安倍晴明が得意とした「泰山府君祭」
はもともと宮廷祭祀でしたが、
時代が下ると、子孫である土御門家が
武家などに対しても健康長寿のために
行うようになりました。

世に若杉家文書というものがあります。
陰陽頭、土御門家の家司であった若杉家に
伝えられた文書、2285点のことです。

これらの文書は安倍晴明の子孫達、即ち、
天和3年に、諸国に散在する陰陽師を
支配する権限を江戸幕府から公認された
「土御門家」に関する資料です。

そのなかには天皇や武家などに対して
行った泰山府君祭の都状(とじょう)
というものが多く含まれています。

その一つに
「伊達政宗泰山府君祭都状案」
があります。

文書に「案」と付されていますが、
この文書の封紙には
「慶長廿年 政宗名乗自筆 泰山府君都状」とありますので、
この都状に記載されている「政宗」の文字は伊達政宗公の直筆であることがわかります。

ただし本文をよく見ると、
泰山府君祭の特徴である健康長寿を祈祷するものとは、内容が少し異なっていることが
分かります。

「殊家康公・秀忠公対政宗心中悪心退」
という文言が見て取れます。

これは、伊達政宗公に対して
危害を加えようとしている徳川家康
・秀忠の悪心を退かせるために
願ったものだと分かります。

およそ健康長寿とは関係ない内容が
含まれています。

さて、家康・秀忠親子の「悪心」とは
何だったのでしょうか。

この都状が出された慶長20年という年は、
「方広寺の鐘銘事件」を契機として勃発
した「大坂冬の陣」の和議が成立して
間もない頃です。

有名な「国家安康」の鐘銘にまつわる
この事件は、もちろん徳川方の言い掛かり
に過ぎません。

即ち、天下はもう一波乱ある要素が
そこここに残っていたのです。
今度は誰が難癖をつけられて
滅ぼされるのでしょうか?

そのため、伊達政宗公は徳川家から
謀反の疑いをかけられることを
恐れていたのではないでしょうか。

政宗公が徳川幕府の大番頭として
信任を得るのは、三代家光の時代に
なってからです。

家光は戦乱の世の出来事を政宗公に
せがんで聞いていたとのことです。

が、しかしそれは後年のこと。
政宗公は、近々に必ずもう一戦
起こると考えていたのでしょう。

小田原攻めにも、なんやかやと理由を
つけて最後まで参戦しなかった政宗公。

徳川の天下未だ固まらざる中、
最後まで野望を持ち続けていた
のかもしれません。

いずれにしても、伊達政宗という
希有な戦国大名の用意周到さを
見る思いです。

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