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作品創りとプロデュース

X(旧Twitter)に、こんなポストが流れてきました。

数年前、少年漫画誌の選考評で17歳の投稿者男子に「少年が何を求めているのかをもっとよく考えましょう」という編集評がついてて物凄い歪み方だなと思った。17歳から見たら確実に中高年な年齢の選者が「少年が求めているものを考えてね」と少年に告げている。

https://x.com/korimakorima/status/1745259138140233989?s=20

これに対して、た介先生がこんな疑義を。

大抵の10代〜20代前半の漫画家志望者は、読者のことを考えてないですよ。
そしてなんなら自分のことすらわかってません。自分が何が好きかをわかってないから、同年代の少年が好きなものを描こうなんて考えられない人が多数。

ちょっと露悪的に言うけど、なんか意味ありげなバッドエンド描いて「深い物語でしょう?ドヤ」みたいな人もいるし、エンタメ性の一切ない話を描く人もいる。
「自分が見たことがない=オリジナリティのある設定だ!」と思い込んで、わけのわからない、どこに需要があるのかわからないものを描いてしまうこともある。

少年漫画誌で、少年が何を求めているかを常に考え続けてるおじさん編集者のほうが世の大多数の少年の好みを把握しているのは間違いないです。
そんなもんです。

https://x.com/BigotVinus/status/1745408021654802812?s=20

ちょっと補足しますが、「読者層を踏まえて好まれるであろうものを分析、推測し、自作品に反映させる」って相当に高度なメタ認知能力です。
分析、推測もできない人が大多数。
何より「自作品に反映させる」でつまずく。
そして分析推測反映が見当はずれなものではいけないわけで…。

これを乗り越えればプロに行けるくらいの能力だと思います。
(だから上記の若い志望者のことも馬鹿にしてるわけじゃない。それが普通って感じ)

そこを見抜いて指摘してるのが編集者の言葉なので、当該作品は読んでみないとなんとも言えないけど、ごくふつうのアドバイスだと思いますよー

https://x.com/BigotVinus/status/1745412877337690560?s=20

興味深い内容でしたので、愚考をいくつか。


①プロデューサーとは?

昭和の時代の漫才ブームで、とある芸能事務所の人が若手芸人に、「笑いの文化はキミら若者が作っとるんやない、頭のハゲたオッサンがウンウン唸りながら作っとるんや!」と喝破していました。プロデュースすることの本質は、そこでしょうね。

若者に受ける笑いはテレビ向けに、中高年に受ける笑いは演芸場に、マニアックな笑いは小劇場へ。あるいは関西向けの笑い、関東向けの笑い、適材適所を見抜く。演者を駒として、最適を総合的に判断するのがマネージメントとプロデュース。

そんな経験値や勘が、若手の演者に備わっているかと言えば…人によるでしょう。自分自身のポジショニングを、俯瞰するのは難しいでしょうね。だからこそ、全体を客観視できるプロデューサーが必要なのでしょう。

宮崎駿監督が、初監督した劇場版アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』の興行的失敗と、数年の雌伏期を経て、『風の谷のナウシカ』製作にあたって、先輩の高畑勲監督にプロデューサーを依頼したように。

②知力のピークは五十路

漫画業界でも、大きな新人賞をもらってデビューした後、読者を意識したら描けなくなって、消えていく新人は一定数います。デビュー作で消えていく新人は多いのです。何を描いて良いか、解らなくなるんですね。

もちろん、プロとして経験値が積み上がったら、自分の10年後20年語を見据えてセルフプロデュースしていく能力も、必要です。でも、コレばっかりは経験値が必要ですから。

そもそも人間の能力って、いろいろピーク年齢がございまして。スピードは20代がピークですし、筋力は35歳前後ぐらいと高く。そして総合的な知力は、50歳前後なんだとか。

40代でも物忘れが酷くて、50歳がピークというのは意外ですが、経験値と知力が良いバランスになるようで。そう考えると、頭のハゲたオッサンが、プロデューサーたり得る理由でしょう。経験値と知識のバランスが

プロデューサー気取りのダメ編集者の問題は、また別にありますが。

③考慮や配慮と、迎合と

さて、ほりのぶゆき先生のポスト「多分連載初期で読者層(基本小中学生)に考慮したり今に比べたら構成もシンプルだが根本的なところで読者層のことが頭にない。」が心に響いたので。

多分連載初期で読者層(基本小中学生)に考慮したり今に比べたら構成もシンプルだが根本的なところで読者層のことが頭にない。

https://x.com/nobhori/status/1745254112604856576?s=20

考慮や配慮は必要でも、迎合は意味がないんですよね。作者が言いたいことではなく、読者が聞きたいことを書いていたら、それは作品ではなく商品になってしまうので。

考慮や配慮と迎合との違いについてのポストとも、クロスしてきますが。まずは、自分の描きたいモノを描く、でもそこで自分や編集や雑誌や漫画界を俯瞰して、セルフプロデュースしていく視点を、時間をかけて育むのが大事で。

でも、その前に生き残るのが大変なんですが。では考慮や配慮と、迎合の違いは何かと問われれば。自分の描きたいモノに15%のファンしかいない場合、20%にするための工夫が、考慮や配慮。あるいは80%を切り捨てても、20%に届く作品を創る工夫も、考慮や配慮かと。

④あえて失敗をする選択

「今はコレが人気だから」と、80%に受けるモノをやるのが迎合です。そういうことを、マーケティング渡渉して語る編集者がいますが。多くは失敗します。20%の読者にも受けないのに、80%を狙うのは無茶です。

その視点で言えば、10%にしか受けないモノを商業誌でやるのは無謀です。謀(はかりごと)がないのですから、行き当たりばったりになりがち。ただし、プロデューサーがあえて10%にも受けない作品をやるのはありです。

春風亭昇太師の師匠で、私立春風高校の校長でもあられた春風亭柳昇師は若い落語家に、10日間の寄席興行では7日は受けるネタをやるべきだが3日は失敗しなさいと。

ネタ卸しだったり、新しいことに挑戦すれば、それは失敗する確率が高いです。でも、あえてそれをやらないと、芸人としての伸びもない。すぐれた編集者や編集長には、長い目や広い目で、チャンスとチャレンジを与える面があります。

⑤六分の侠気、四分の熱

週刊少年ジャンプの名物編集長だった西村繁男編集長は、あえて寺沢武一先生の『コブラ』を連載させたとか。緻密な絵柄の寺沢先生は、週刊連載を何年も続けることは難しく、休載期間を入れる必要があったのですが。

絵柄の粗い漫画家が多かったジャンプで、そういう作家を入れないと、いけないと。またジョージ秋山先生の、批判が殺到して他誌で打ち切りになった『アシュラ』の完結編を連載させ、『シャカの息子』や『海底人ゴンズイ』を連載させたのですが。

それらは人気は得られませんでしたが、将来漫画家になる人間には、深く心に残る作品でした。プロデュースすることの本質は、ここにあるのではないかと。編集者の勘、と言ってしまえばそこまでですが。優れた人は、打率も残します。

アンケート至上主義でもダメ、読者無視でもダメで。総合的な判断が必要かと。そこには、六分の侠気、四分の熱。現状を突破する進取の狂気と、理知的に計算する知性と、ふたつが必要なのでしょうね。

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