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なりたい未来が現在を巻き取っていく

9年前の今頃、初めての個展をしたときに当時の同僚(年齢はだいぶ上のおねえさま)でライターさんに言ってもらった言葉。
その時はよく分かっていなかったけど、10年近くかかってようやく腑に落ちてきたよ。
私は絵描きとして生きていく覚悟を決めます


1、中学時代

中学生の私は進路希望のときに、「国語の先生を目指します」と言った。
今思うと酷く安直で薄っぺらい理由なんだけれども、学校の先生というのは人から尊敬される職業なんだろうというのがあった。あとは学校に対しての恨みつらみ。
田舎の1クラス持ち上がりの小中学校で、中2の夏に一方的な正義感を振りかざして人間関係にヒビを入れてしまった鈍臭い私は、その後クラスメイトと関係性を修復できずに暗い青春時代を過ごした。生徒会役員、部活の部長もしていて成績も(校内では)よかった私はだいぶ調子にのっていた。一度の発言で学校生活が滅茶苦茶になることを予想できなかった。
今思うとADHDあるあるみたいな話だ。卒業アルバムの集合写真ではそれはそれは恨みがましい目で睨んでいて、たまたま見た旦那に「亡霊か?」と言われた。

そのころから人が当たり前にできることが上手くできない自分の特性に薄々気づいていた。要するに生きづらかった。学校も全然行きたくなかったけど、行かないことを許されるような時代・土地柄じゃなかった。
そんな絶望の学生生活でも「将来の進路」を聞かれるわけである。
そもそも田舎の中学生が知ってる職業なんて多くない。今みたいにネットも身近じゃない。
今も昔も承認欲求モンスターな私は「人から尊敬される職業」、「私を見捨てた大人達を反面教師とした教師(今思うとそんな悪い人達じゃなかった)」という理由から学校の先生を目指すことにした。

2、高校時代

国語の先生、と言っていたのは当時1番得意だったのが国語だったことと、青春時代を救ってくれたのが本だったからだ。休み時間に本を読んでいれば、友達のいない惨めな子にも見えないと思っていた。(だいぶ惨めだ)
「美術」と言えなかったのは、私がクラスで1番絵が上手い人間ではなかったからだ。ずっとコソコソとイラストを描いていたけど、それを褒められた記憶はない。小中高と一緒だった同級生に、抜群に絵が上手い子がいた。例えばクラスで何か絵を描かないといけないとき、みんな必ずその子に頼んだ。私が頼まれたことは一度もない。同じ高校の同じ美術部に入ってしまったことでそのコンプレックスは加速した。高一の高校総合文化祭で、初めて賞を取った。嬉しくて初めて「私って絵の才能あるのかも!」と思えた。締め切り前日に、彼女に「そんなに頑張ってなんになるの?」と嘲笑われたことも重なって、やってやったぜという思いもあった。
それでも周りの目は変わらず、私が絵を頼まれることはなかった。今思えば彼女はイラストが得意でセンスもよく、私が当時描いていたのは油絵の風景画なので思い込み甚だしいのだけれども、当時のガッカリ感ははんぱなかった。(余談だが彼女は洋画オタクで、英語も得意だったので通訳の仕事に就いた)

そんなわけで学生なりに身の程をわきまえた私は「美術」は特別な人のためのもので凡人が目指すべきものではないと割り切っていた。
粛々とそれなりにお勉強に勤しんでいた私に転機が訪れたのはセンター試験。
京都教育大の国語科の推薦に落ちて、福岡教育大を目指していた私はセンターでど滑りした。
英語と数学がひどかった。
現役で国立に行くには宮大?でも宮大の国語科もなかなか厳しいぞ...ってな点数で悩んでいた時に、当時の担任に「美術部での実績があるのに、なぜ美術を目指さないのか」と言われた。目から鱗だった。
そしてその時に初めて、「本当は絵が好きなのに、恥ずかしくて好きと言えない自分」に気づいた。
ラッキーなことにその年の宮崎大学美術科は倍率が低くて、現役で入ることができた。

3、大学時代

大学ではあまり絵は描かなかった。絵で生きていく気はさらさらなくて、「美術は特別な人のためのもの」という気持ちが抜けきれてなかったからだ。あくまで学校の先生になる勉強をしているつもりだった。中学美術の教員免許の他に、かなり無理して小学校教員免許1種もとった。ゼミも絵画研究室ではなくて、美術教育研究室に入った。それでも心のどこかに絵を描くことに対する憧れがあって、卒業論文発表だけでいいのに、絵画研に混ざって卒展にも出させてもらった。
映画研究部に入っていて、お酒を飲んだり、ちょっとした自主映画を作ってみたりするのが楽しかった。

4、講師時代

大学卒業して1年目。当時中学美術の教員採用試験の倍率は高くて(18人受けて1人しか受からない)、学生時代に最終選考までいったものの当然落ちた私は、病休補充の講師として働いた。
初めての学校では、鬱病の先生の補充として小学3年生の担任をした。新卒の私には足りないところが多かったけど、周りの先生の手厚いサポートもあってなんとかかんとかやっていた。子どもの無邪気な視点が新鮮だった。
ただ、そんな日々も1学期の夏休みで終了した。鬱で休んでいた正規の担任が、2学期の運動会に出たいと言ってきたからだ。周りの先生も抗議してくれたけど、正規の希望には敵わなかった。(その先生は運動会後にまた休職した。今考えても酷い話だね)

幸か不幸か学校は人手不足なので、次の勤務先もすぐに決まった。またもや鬱の先生の補充で中学校に勤務した。美術の他に家庭科も、さらに中3受験生の副担任だった。
正直めちゃめちゃ辛かった。ベテランを鬱に追い込んだだけある職場環境で(その先生は復帰できず退職された)、生徒もやんちゃだったが職員室の空気が悪かった。
毎日帰りは20時過ぎだし、家庭科はうまくいかないし、中学生と関係を作るのは難しいし23歳の小娘はシンプルに病んだ。担任の先生が生徒に向けて「嫌いな先生アンケート」を取って、そこに私の名前をあげていた生徒の回答を見せてくれた。(なぜ...そんなことをする...)
朝起きれなくなって、なんとか起きて学校近くのコンビニまで行けてもそこから学校に行けなくて、泣きながら親しい先生に電話した。
精神科の受診を勧められて、適応障害の診断を受けた。まともに働けない自分が情けなくて死にたかった。
校長先生に辞職を願いでたら「みんな薬を飲みながらがんばってるんだよ」と言われて辞めれなかった。イカれてやがる...
ただ、副担をしていた子たちが卒業のときの寄せ書きで、「ちなみちゃんはがんばった!」と書いてくれたのがとても嬉しかった。そのことだけが救いだった。

5、NPO勤務時代

年度末に契約がきれてからしばらくは、まともに働く気になれなかった。前職の親切な先生が紹介してくれた陶芸教室でバイトをした。私は教師は向いていない。それでも出したカードは簡単に下げれない。惰性で教員採用試験の勉強をした。実技対策のデッサンの練習が気晴らしになっていた。
7月、だらだら見ていたfacebookで、大学時代の映研の先輩が勤めているNPO法人宮崎文化本舗がだしている求人の記事を見つけた。これもターニングポイントだった。
文化本舗は文化系事業に力をいれていて、映画館や美術施設の運営をしている。無職の後ろめたさから解放されたくて面接をうけた。

国の緊急雇用枠という補助金で雇われた私達は、同期が10人だったのでK10と呼ばれた。ライターや国際交流員、色んな人がいた。幸い採用されたけれども、希望した美術施設ではなく、地球温暖化防止に関する部署に配属になった。それでも丁寧に育ててもらって、仕事を任せてもらって少しずつ人としての自信を取り戻せた。元気になってくると「私が本当にしたいことってなんなのか」という問いが浮き上がってきた。

文化本舗には色んなことが得意な面白い人達がたくさんいた。同期にアート系イベントに携わる人がいて、私はその人にとても嫉妬した。「同期の中じゃ私がアート枠だと思ってたのに!」という思いがあった。
後にその同期と親しくなって、初個展の後押しをしてもらった。その人はビューアーを名乗る見る専で、自分は絵を描かないという不思議な人だ。

当時の宮崎は若手アーティストの自主イベントがたくさんあって、街中が盛り上がっていた。そんな若手作家の溜まり場に、「アート×バー アンテナ」があった。
絵を描いて売る、なんて縁遠いと思っていた私は、それまでイベントやアンテナを敬遠していたけれども、件の同期に連れられてアンテナを訪れた。初めて、「個展をさせてください」と言った。何を表せるのかも分からないけど、とにかく今自分ができることを試してみたかった。

6、初個展

当時の作品は作風も固まってなくて、表現したい中身もなくてとにかく稚拙だった。それでも自分の作ったものを通して見た人からさまざまな思いを聞くことができた。人に作品を見てもらうのは楽しいと知った。

アンテナは常連さんも多かったので、想定していたよりたくさんの人に見てもらうことができた。そんな中、たまたま宮崎のトップアーティストがアンテナに訪れた。(当時の私は本当に無知だったのでその人を知らなかった)
そしてなんと、「うちの弟子になりなよ」というではないか。なぜか二つ返事で、よろしくお願いしますといってしまった。

7、9年

9年間、私はそのアーティストのもとで活動した。絵だけで生計を立てている人をそれまで見たことがなかったので、大変なカルチャーショックだった。地方に住みながらこれほどまでに海外でも活躍できるのかと。
私と師匠の師弟関係は絵を指導してもらうということではなく、師匠の活動の雑務(書類仕事やアトリエの掃除)をこなすかわりに、展示の場を紹介してもらうという感じだった。
ただ、直接の作品に対するアドバイスではなくとも、活躍する作家の作品を身近に見れたことで、自分の作風が固まった(と思う。)
「生まれなおす」というコンセプトにも行き着くことができた。
師匠がくれる展示の機会はいつも私にはハードルが高くてあきらかな飛び級レベルだった。なんとかかんとかこなすことで「絵は売れるのだ」という実感がわいた。
それでも「絵で食っていく」と決断するには時間がかかった。9年かかった。

8、2度目の個展

9年の間に緩やかに意識が変わっていった。まず、教員採用試験を受けるのを辞めた。前述のNPO法人は2年で退職して、その後も学校で働いてはいるものの、「先生になる」という呪縛からは脱した。未来ある子どもと接するのは楽しい。けれども私がしたいことは先生ではなかったようだと認めた。これにも時間がかかった。親は私の「先生になりたい」という言葉を信じて大学費用を投資してくれたので、それを裏切る形になったのは申し訳なかった。
海外や県内外での展示で出会った多くのアーティストの想いに触れて少しずつ気持ちが「作家」に傾いていった。

「私、絵で食っていきたいんです」と言えたのは本当につい最近だ。娘が生まれたからも大きい。趣味で絵を描く時間はない。絵を描き続けたいなら収入にせねば。
2022年に、8年ぶりに個展をした。師匠のもとではアートフェアやグループ展がメインで、個展をする機会がなかったので、意を決して企画した。出身地での個展ということもあり、2月分の給料ほどの収益をあげることができた。これがとても自信になった。

じゃあこれからどうやって活動しようかな、と考えた。師匠には本当にお世話になった。アーティストという職業を教えてくれた。
でも私はあまりに未熟な段階でアート業界に飛び込んで、全然乗りこなせなかった。どんなに立派なアートフェアに出させてもらって、1、2点売れたとしても、与えられたタスクをこなすだけで次の機会につながるほどアート業界は甘くなかった。1から自分で足掻いて、絵描きとして生きる道を模索したいと作家としての自我が芽生えた。
2023年7月、門下を離れることにした。

9、これから

私は絵描きとして生きることにきめた。33歳(11月で34...)あまりにおっそいスタートだ。でも、生きづらさをかかえて生きてきた私の絵が、生きづらさをかかえて生きるどこかの誰かを救えると信じている。マーケットに乗せるだとかではなくて、そういう人に届ける活動を目指したい。
「才能がない」を言い訳に、今まで何度も逃げようとした。でももう逃げない。9年前の個展で手塚さんが言ってくれた、「なりたい未来が現在を巻き取っていく」の意味がやっと分かったから、「絵描きとして生きたい」が私の本当の願いだったって認めるよ。


作品とか載せてます。よかったら見てね。https://lit.link/chinamiogata


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