137mm 雉屯の場合


小綺麗な図書館のカウンターで、背筋を真っすぐに伸ばす彼女を見ると、思わずこちらも畏まってしまいそうになる。一目見て、淑やかさであったり、奥ゆかしさを連想させるような女性は素敵だと思う。

読書する姿でじゅうぶん絵になる千子は、無論その例に漏れない。目に見えた感情表現は少ない子だが、それがまた彼女の凛々しさを引き立てているような気もする。

カウンター前に立ったわたしに気付くと、千子は読んでいた本から顔を離したものの、わたしを見るなり少し顔をしかめて、またすぐに戻した。

「ごきげんよう」 

目は活字を追ったまま、言われる。

「そんな斜めなご機嫌でその挨拶使わないでくれる?」

「不思議なもので、あなたに会うとこうなってしまうの。パブロンの犬よ」

丸みのない声は、わたしに当たって地面に落ちていく。

「わたし、なんか嫌われるようなことしたかしら?」

聞くが、何も返ってこなかった。

千子はわたしと会うといつもこうだ。こんなに冷たくあしらわれる覚えはない…………いや、あるっちゃあるけど。

「あとそれと、犬はパブロフね。パブロンは風邪薬だから。早めのパブロン♪だから。効いたよね?のやつだから。ねえ聞いてる?」

「聞いてない」

人がせっかくツッコんであげているというのに。

「それで、わざわざ図書館に何か用?」

千子は、相変わらずわたしの方を見てくれない。

「用がなきゃだめ?」

「私、忙しいんだけど」

「暇でしょ、本読んでるもの」

「これ仕事だから」

知ってた。

だいたい彼女は働きすぎなのだ。仕事熱心というわけでもなさそうだけど、何かに集中すると他のことがどうでもよくなってしまうタイプらしく、特に食事を疎かにしがちだ。大学時代の千子は、それはもう折れそうなくらい細かったのをよく覚えている。

「まあ、用がないというわけではなくて」

わたしは、“それ”を右手でつまんで、彼女に差し出す。

「はい、あげるわ」

「……………」

あ、やっとこっち見た。

「え、ちょ、ねえ、ここ飲食禁止なんだけど」

いっそう声質が硬くなった。なおのこと不機嫌にさせてしまったみたいだけど、いやあ、怒っても顔は整っているな。

「いいでしょう、別にポッキーの1本や2本くらい」

「いやだめだから。あとそれも」

「どれ?」

「それ。何なの、それ」

彼女の細く白い指が、わたしの左手に向けられている。さっきスタバで買って、途中まで飲んだ。

「何って、トールバニラノンファットアドリストレットショットチョコレートソースエクストラホイップコーヒージェリーアンドクリーミーバニラフラペチーノだけど」

また千子が顔をしかめた。

「……馬鹿なの?」

「馬鹿じゃないわよ。こちとらバリキャリなんだけど」

「バリキャリが飲みそうな馬鹿な飲み物じゃないの?」

「あんたねえ、スタバ信者に殺されて緑の看板にされるわよ」

「とにかく、それだめだから」

「いや、中では飲んでないのよ?あっちのカフェスペースで―――」

「それでもだめ。ていうか、そもそも持ち込みがダメ。ペットボトルとか蓋つきのならいいけど」

「えー、でもこれも蓋つきコップ―――」

「もし倒れたら零れるでしょう」

「ケチねー」

「私が決めたことじゃない」

ちぇー。

「だからそれ、飲み終えてからにして」

千子はため息をつきながら、読んでいた本に栞を挟んだ。知らない小説だった。

図書館司書だからたくさん本を読んでいるのは勿論なのだが、じゃあ彼女がどんな本が好きかとか、作家は誰が好きとか、そういうのが見えるわけでもなくて、非常にもやもやする。聞けばいいのだけど、なんとなく教えてくれなさそうな気がして、結局問うたことはない。

「もう私も休憩入るから。用件はそのポッキーだけ?終わったなら帰って」

「あ、待って、本借りに来たのよ。探してほしいんだけど」

「何」

千子がパソコンの方を向いたことで、初めてヘアピンの存在に気付いた。わたしが先月あげたやつだ。「センスない」とか散々言われた気がするのだけど。

「ルーマニア語の日常会話集みたいなのない?」

「え、ルーマニア?なんで」

「仕事」

「…………あー、海外出張」

キーボードを叩く音が小気味よく響く。この硬い感じが、どことなく千子の雰囲気に似ている。

「前回どこだったっけ」

「インド。水飲んだら死にそうになった話したでしょ」

「ああ、された気がする」

「あっちは全然英語通じるからいいけどね。さすがにわたしもルーマニア語まではカバーできてないのよ。でも現地の軽い挨拶くらいはできないとね」

「いつから?」

「来月」

「そう……何週間?」

「1年」

ぴたり。

カタカタという音が止まった。

短く切り揃えられた爪の先が、キーボード上で所在なさげに彷徨っている。

遠くで静的なノイズが鳴る。

時計の針が止まったわけでも、世界が切り取られたわけでもないけれど、わたしと千子の間には、気の遠くなるような長い時間が与えられていた気がする。

すう、っと、息を吸う音がした。

「あなたはさ…………どうして、そう、いつも急なの」

「会社の命令だから。仕方ないのよ」

「1年って、何。なんで」

「命令だから」

「なんで」

「仕事だから」

「馬鹿なの?」

「馬鹿かしら?」

「馬鹿」

千子はおもむろに椅子から立ち上がって、カウンターを出たその足で、そのまま外に向かった。気付いたら腕を掴まれていて、わたしも連れて行かれる。

「ちょっと、どこ行くの」

千子は前を見たままだ。

「本当に馬鹿。たまに私の前に現れたかと思えば、やれ料理だの、プレゼントだの」

「でも、そのお陰で千子は健康体になったじゃない」

わたしは良いお節介を焼いたのだ。感謝してほしい。

「はい、そこ座れ馬鹿」

連れてこられたのは、わたしがさっきまでいたカフェスペースだった。言われるがまま席に着く。

千子は自販機で何か買うようだ。

「わたしの飲む?」

スタバの容器を少し振って見せる。

「要らない。その、なんとかかんとか」

「トールバニラノンファットアドリストレットショットチョコレートソースエクストラホイップコーヒージェリーアンドクリーミーバニラフラペチーノね」

「要らない」

がたん、と落ちた冷たい缶コーヒーを取り出して、こんな寒いのにそれを大事そうに握りしめていた。

「ルーマニアって、遠い、わよね?南ヨーロッパでしょ」

「まあ遠いわね。なに、寂しい?」

「は、違うし」

そう言って、慌てたようにプルタブを起こす千子が可愛かった。

わたしは袋からポッキーを取り出して、そんな彼女に差し出す。

「…………ありがと」

「あー、いや、そのまま食べるんじゃなくて」

ポッキーを受け取ろうとした手を制止する。

「は?え、なに」

「ポッキーゲーム」

「馬鹿なの?」

「もう、馬鹿でいいわよ。馬鹿でいいからポッキーゲーム」

「やらない」

買ったコーヒーを飲みもせず、ただ突っ立っている。

「わたし、1年間海外行っちゃうのよ?」

「…………だから、何?」

「別に、なんでもないけれど」

もう面倒なので、わたしは立ち上がって、問答無用で彼女の口にポッキーを突っ込んだ。

「んっぅ!?」

目を見開いたのち、鋭く睨まれる。

構わず、わたしも咥えようとするが、久々の千子との距離に少し躊躇してしまいそうになった。実際、ためらった。

「先に言っておくけど、折らないでよ?」

不自然な間を誤魔化す。

「ポッキーの由来は折れる音。折らないとグリコに失礼」

なんだそりゃ。

「折っちゃダメ。ポッキーの長さのぶん離れているけれど、ポッキーで繋がってることは確かだから、折ってはダメなの」

「……………そう」

淡く火照った唇が動いたのを見て、わたしは片端を咥えた。

137mm、近いのか遠いのか、まだわたしには分からない。


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イラスト:ひざうらデルタ/イーダマン




↓ 原案(?)の製作過程はこちら


#ポッキープリッツの日

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