137mm 千子の場合
見飽きた図書館のカウンターから、堂々と歩く彼女を見つけて、つい目で追ってしまった。一目見て、頼もしさであったり、真摯さを連想させるような女性は魅力的だと思う。
スーツを着こなす雉屯は、無論その例に漏れない。なぜか私に世話を焼いてくるが、それがまた彼女の人望の厚さを物語っているのかもしれない。
カウンター前に雉屯が来て、私は読んでいた本から顔を離したのち、またすぐに戻した。
「ごきげんよう」
なぜか彼女の方を見ることができない。
「そんな斜めなご機嫌でその挨拶使わないでくれる?」
「不思議なもので、あなたに会うとこうなってしまうの。パブロンの犬よ」
心の奥のフィルターで濾過された言葉が、こぼれて染みていく。
「わたし、なんか嫌われるようなことしたかしら?」
聞かれたが、何を返せばいいのか分からなかった。
私は雉屯に会うといつもこうだ。こうして何かで顔を隠しては、荒んだ言葉で自分を見ないようにしている。
「あとそれと、犬はパブロフね。パブロンは風邪薬だから。早めのパブロン♪だから。効いたよね?のやつだから。ねえ聞いてる?」
「聞いてない」
聞いてた。
「それで、わざわざ図書館に何か用?」
雉屯は、今どんな顔をしてしるだろうか。
「用がなきゃだめ?」
「私、忙しいんだけど」
「暇でしょ、本読んでるもの」
「これ仕事だから」
「まあ、用がないというわけではなくて」
目の前に、“それ”が差し出されて、顔を上げる。
「はい、あげるわ」
「……………」
ポッキーだった。どうして?
「え、ちょ、ねえ、ここ飲食禁止なんだけど」
入り口のところに書いてあるだろうに。雉屯はこういうところがある。
「いいでしょう、別にポッキーの1本や2本くらい」
「いやだめだから。あとそれも」
「どれ?」
「それ。何なの、それ」
彼女の持っている飲み物を指さす。スタバのやつだろうか。
「何って、トールバニラノンファットアドリストレットショットチョコレートソースエクストラホイップコーヒージェリーアンドクリーミーバニラフラペチーノだけど」
は?ラーメン屋のオーダーか?
「……馬鹿なの?」
「馬鹿じゃないわよ。こちとらバリキャリなんだけど」
「バリキャリが飲みそうな馬鹿な飲み物じゃないの?」
「あんたねえ、スタバ信者に殺されて緑の看板にされるわよ」
「とにかく、それだめだから」
「いや、中では飲んでないのよ?あっちのカフェスペースで―――」
「それでもだめ。ていうか、そもそも持ち込みがダメ。ペットボトルとか蓋つきのならいいけど」
「えー、でもこれも蓋つきコップ―――」
「もし倒れたら零れるでしょう」
「ケチねー」
「私が決めたことじゃない」
ちぇー、と口を尖らせる彼女の、たまに子供っぽいところが少し愛らしいと思う。
「だからそれ、飲み終えてからにして」
私は読んでいた本に栞を挟んだ。早く趣味の本を読みたい。
色々な本を読むようになって、多方面の知識は増えたけれど、知らなくていいものを知ってしまったり、本当に知りたいことが分からなくなってしまったり、そういう事態にならないかと時々不安になることがある。
「もう私も休憩入るから。用件はそのポッキーだけ?終わったなら帰って」
「あ、待って、本借りに来たのよ。探してほしいんだけど」
「何」
パソコンの方を向いて、検索ソフトを立ち上げる。一瞬、黒い画面になって、私の顔が映った。
「ルーマニア語の日常会話集みたいなのない?」
「え、ルーマニア?なんで」
「仕事」
「…………あー、海外出張」
キーボードを叩く。「ルーマニア」を打ち込むのに、やけに力が必要だった気がする。
「前回どこだったっけ」
「インド。水飲んだら死にそうになった話したでしょ」
「ああ、された気がする」
「あっちは全然英語通じるからいいけどね。さすがにわたしもルーマニア語まではカバーできてないのよ。でも現地の軽い挨拶くらいはできないとね」
「いつから?」
「来月」
「そう……何週間?」
「1年」
ちくり。
カタカタという音が止まった。
私の目は、どこを見ていいか彷徨っている。
近くで動的なノイズが鳴る。
ページをめくってもめくっても、私の探したいものが見つからない。今どうすべきか、何を言うべきか、どこにあるんだろう。栞は挟んでいなかったか。
ふう、っと、息を吐く音がした。
「あなたはさ…………どうして、そう、いつも急なの」
「会社の命令だから。仕方ないのよ」
「1年って、何。なんで」
「命令だから」
「なんで」
「仕事だから」
「馬鹿なの?」
「馬鹿かしら?」
「馬鹿」
なんなんだ、こいつは。
立ち上がって、カウンターから出て、彼女の腕を掴んでいく。多少よろけていたが、そんなことはどうだっていい。
「ちょっと、どこ行くの」
雉屯の顔を見られない。私の顔も見せたくない。
「本当に馬鹿。たまに私の前に現れたかと思えば、やれ料理だの、プレゼントだの」
「でも、そのお陰で千子は健康体になったじゃない」
あなたは構いすぎなのだ、私に。
「はい、そこ座れ馬鹿」
カフェスペースに入って、雉屯を座らせる。
私は自販機で何を買おうか迷う。雉屯の分も買うべきか。
「わたしの飲む?」
あ、あいつは飲み物あるか。
「要らない。その、なんとかかんとか」
「トールバニラノンファットアドリストレットショットチョコレートソースエクストラホイップコーヒージェリーアンドクリーミーバニラフラペチーノね」
「要らない」
がたん、と落ちた冷たい缶コーヒーを取り出して、少し動揺した。私はコーヒーが飲めないのに何を買ってるんだ。しかも冷たい方。こんなに寒いのに。
ルーマニアの冬は寒いだろうか。
「ルーマニアって、遠い、わよね?南ヨーロッパでしょ」
「まあ遠いわね。なに、寂しい?」
「は、違うし」
知らない。そんなの知らない。
プルタブを起こす指が冷たい。
雉屯が袋からポッキーを取り出して、それを私に差し出す。
「…………ありがと」
「あー、いや、そのまま食べるんじゃなくて」
ポッキーを受け取ろうとした手が制止される。
「は?え、なに」
「ポッキーゲーム」
「馬鹿なの?」
「もう、馬鹿でいいわよ。馬鹿でいいからポッキーゲーム」
「やらない」
買ったコーヒーを飲めなくて、ただ突っ立っている。
「わたし、1年間海外行っちゃうのよ?」
「…………だから、何?」
「別に、なんでもないけれど」
なんでよ。
なんで、行っちゃうの。
「んっぅ!?」
無理やりポッキーを口に突っ込まれてびっくりした。なんなんだ、こいつは。
「先に言っておくけど、折らないでよ?」
「ポッキーの由来は折れる音。折らないとグリコに失礼」
チョコの付いた方を押し付けられながら抗議する。よく知った甘さがあった。
「折っちゃダメ。ポッキーの長さのぶん離れているけれど、ポッキーで繋がってることは確かだから、折ってはダメなの」
「……………そう」
一番寂しそうな目をしながら、彼女は片端を咥えた。
137mm、近いのか遠いのか、もう私には分からない。
イラスト:ひざうらデルタ/イーダマン
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