名無し@

最近友達の手伝いでコミティアに行った。
3月から地元に戻ってしまう同級生の漫画家の友達と、今回がコミティア初出展の十年来の友達のお手伝いのため。

漫画家の友達の手伝いをきっかけに、去年初めてコミティアへ足を踏み入れた。デザフェスすらも行った事がないので、あまりの賑わいに驚いた記憶がある。

漫画家の友達は連載を持ちつつ、自分の描きたい漫画をこうして自費制作して出している。
毎度強い熱量で新刊を出す友達からの「ここの中、全部がみんなのオリジナル漫画だと思うとワクワクしない!?」という言葉には気持ちを熱くさせられた。
コミティアはオリジナル漫画をメインとしつつ、写真集、旅行記、エッセイ、かなりニッチな収集物をまとめた本などの専門性の高いエリアもあり、情熱がひしめき合っている。

人生初のコミティアで購入した本は、昭和の通販広告をまとめた本だった。


初出展の友人の売り子として1時間ほど番をしていたが、とにかく暇で暇で仕方がなかった。
だからといって携帯を触っているのも感じが悪いし、最初は本など開いていたが、うつむいているのもなと思い、隣接したスペースの作家とファンとの会話を盗み聞きしながら、気が向いた時に少し話しかけたりもした。
隣りのスペースの人は、普段海洋生物を研究している方で、彼とファンとの会話の中で出てきた水族館の名前が、個人的に今まで行った中で一番面白い水族館だったなぁということを思い出した。
どうやらその水族館は一般公開をやめてしまったらしい。予約すれば入れてもらえるという有益な情報を得た。
ファンの方が定期的にいらっしゃる感じだったので、話しはすぐに途絶えてしまった。

私は物を作るしイラストも描くので、この場は全然アウェイな気持ちではなかったが、じっと座っているのが退屈で、最終的にはずっと人間観察に興じていた。

付近のスペースをぼーっと見ながら、"島"と呼ばれるジャンル分けされた空間のなかで、「はじめまして」と「いつも見てます」から始まる様々なペンネームの自己紹介が行き交うのを聞いていた。
ちなみに友人のとっていた島は「萌え・美少女」のスペースらしい。なんとも古典的なジャンル表記な気がして、聞いた時には思わず笑ってしまった。その島のイメージを漠然と伝えると、猫耳〜メイド服が溢れている感じだ。
友人はデザイン性の高いファッショナブルなイラストを描く人なので、この島で本当に届けたい人にこの創作は届くのだろうか…なんて余計なお世話なことを考えていた。

周りを見渡しながらふと"ペンネームをひらがなで さくら、ゆき、うさぎ、もちなどにしてる女性には気をつけよう"という偏見が頭の中に浮かんだ。一応経験上の話しだ。

以前思い人と、何か良いペンネームが欲しいよねと話していた時のことを思い出した。世の中には素晴らしいペンネームが存在するが、個人的にはダ・ヴィンチ・恐山さんとオーケーコンピューターさんは最高のペンネームだなと思う。

コミティアのようなペンネームが溢れた場所に行くと、改めてペンネームの付け方は個性が出るなぁと思わされる。本名を文字ったり、名前というより文章だったり、かわいいモチーフを選んだり、何かのパロディだったり、、。

名前には自分をキャラクターとして置き換えることが出来る効果があるのも興味深い。

特に自分の外側に制作物を作品として発表するような人は、ペンネームを自分自身というよりかは、分人にしている可能性のほうが高いように思う。
そしてなぜかそれは、ただ自分で勝手に名付けた自分であるのに、当然自分とは分けて良いもののように感じてしまう感覚が私にはある。

某ラッパーがMCネームを名乗っている時、自分と別人格のように振る舞い「こいつならこうする」という思考回路を用いて、自分でその人格を止める事が出来なくなってしまったので、自身として本名に改名するという話しを聞いた事があり、それは漫画家の中によくある感覚というか、キャラクターが勝手に動き出すように出来上がる、あの感じを思い出した。

例でいうと、冨樫先生の「ヒソカはあの場でマチを殺したがっていた」という言葉はそのまさにで、ヒソカというキャラクターが今私たちの居る場所のかなり近い所で、名前があり、人格をもち、意志をもち、確かに存在しているんだと感動し震えた覚えがある。

話は戻るが芸能人の芸名という人格も、名前として現実に存在してそうなもののため、つい忘れがちになってしまうが、もちろん人によっては分人として感じている方もいるかもしれないし、生身なばかりにプライベートと分けられないような扱いを受けるのは、分人はプライベートと分けて然るべきという感覚を持つ自分からすると苦しいように思ってしまう。

親からもらう名前と、他人につけられるあだ名は、自分に合っているのか合っていないのか、そういった自分の外側からの名付けがあった時、自分の存在とは、相手にとってはその名前の存在であって、自分の思う自身の存在とは少し異なる気がするのは私だけなのだろうか?

相手からの呼び名は、強要しない限りは自分でコントロールする事が出来ない。最近、仕事相手に上司を影ではあだ名で呼んでいるという話しでひと笑いとったりなどしたが(陰湿なものではありません)、その名で呼ぶ時は普段の上司とは違うキャラ付けを私たちがしているような感覚がしている。

そう考えるとやはり呼び名は存在と関係に関わってくる。親しさや対等さはそこにちゃんと現れている。
だからこそ私は親しい人に自分の呼んで欲しいと強要する節がある。自分と乖離しているような感覚が少しあるからだ。苗字ですらそのように感じる時もある。

それで思い出したのだが、LINEで人が設定している名前を、自分が普段呼んでいるように書き換えたりすることがあると思うが、皆さんはどれだけその機能をつかっているだろうか。

私は特に理由はないが基本的には書き換えずに使っている。恐らくこれを書き換えるのは、自分にとっての相手の存在の乖離を無くしていく作業なのだろう。

ふと人のLINEで、呼び名でもなく記号として名前を書き換えられていることを知ってしまった時のなんとも言えない感覚を思いだした。

自分の存在や感情は他人に定義されるものではないと思いたいが、(他人がいて自分を認識できることもまた事実)他人に編集された私の存在の片鱗は、あやふやのまま何処にも辿り着くことはない。

そのトーク画面の中には私の無数の発言が並んでいる。悩んで伝えた言葉もある。感情を乗せて文字にしたこともある。なので私はその存在を自分のこととして受け取ろうとしていることで悲しがっているのかもしれない。他人が付けた記号を分人として考えることは難しいなと思うのだった。不可能な事であるし、意味のないことかもしれないが、考えてしまう。
(それだったらアイコンももっと存在として考えたほうが良さそうすぎるけど。)

改めて何かに名前が付くということは、途端にその存在を増大させるということを学んだのはここ2年ほどであった。なので名前の付く存在、名前の付く関係はとても羨ましく思う。

私は好きな人の名前を見るだけで元気が出てくるし、いつだって特別な気持ちになれるお花畑タイプの人間だが、皆さんはどうだろうか?
私は携帯の中に好きな人のフルネームが並んでいるのが大好きだ。

名無しの匿名に溢れたインターネットの中でそれなりに過ごしてきた割には、名前を抜いて自分の存在を証明出来る自信もなんだかない。いや、というか匿名は自分の存在を消していく作業なのか。

うーん、名前に固執しすぎなのだろうか?
わからないけど、私は名前を持ってここに存在しています。これからもよろしくお願いします。

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