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それが愛であるならば、(全て許されるのか?というAceのぼやき)

愛、という言葉を聞くと思い出す一節がある。

愛、それはなんだ
もっとも自然な鎮痛剤それだ。愛

これはウィリアム・バロウズの絶筆となった一文だが、アロマンティック・アセクシャル民で恋愛感情がさっぱりわからん私からすると、”愛”を端的に表す一文として一番納得したものだ。(ポピュラーなのは俗説でいうところの漱石の『月が綺麗ですね』あたりだろうが、人間の機微に疎い私にはさっぱりわからん。奥ゆかしすぎますわ)私自身、人間は平等にそれぞれの尺度で満たされないと考えている人間なので、だいたいの人間はすべからく生きづらいし、それぞれに不幸だと思う。
「生き辛えなあ 未来に希望なんかもてねえな、しんどいな、仕事したくねえな…」
なんて、日々ぼんやりとした不安や苦痛を抱えながら、それでもなんとなく諾々と生きているだろう。まさに私がそうだ。そんな倦み切った現状を忘れるための鎮痛剤として”愛”があるのだ、と思えばなるほど世の中が恋愛至上主義世界になるのも納得だ。恋愛を主軸としない私における鎮痛剤は”趣味”にあたるが、社会の多くを占めるヘテロロマンティックからすると、恋愛を鎮痛剤とすることは自然なことなのだろう。


なんてったって、世界は”愛”を賛美する声で溢れている。メディアも、漫画も、映画も、小説も、正直恋愛ネタが一切絡まないもののほうが少ない。恋愛感情にそもそも共感ができないがフィクションに耽溺し続けた人間としては、恋愛要素が共感できなさすぎて逆に「いやまじか、なんでそうなんの? 怖!」とわからないなりに斜め上の楽しみ方(いわゆる恐怖刺激的なやつだ)をしていたりするが、そんなことできるのは一握りだろうし、そもそも楽しみ方の意地が悪すぎる。おすすめはしない。しかし、『愛=鎮痛剤』と仮定すると、今までの疑問に大方答えが出た。
結局のところ、人間誰しも鎮痛剤を打ち続けなければ、人生の長さに耐えられないのだ。人生に意味を見出したくなってしまうのだって、きっとこれが根源だ。

先日、元彼から実に2年ぶりにメッセージが届いた。(そういえばさらに前の彼氏も別れて1,2年経ってから連絡をよこしたことがあるのだが、彼らにはなにかタイマー的なものが仕掛けられてるんだろうか)内容は他愛ないものだ。『元気?』『そういえば…』のような、開いた年月なんかなかったような類のメッセージ。これも不思議と共通している。
いきなりだったので混乱したが、一旦冷静になって考えてみればそろそろ記念日が近かった。なるほど、と私は思った。彼らは”鎮痛剤”を求めているわけだ。

かつて私はアロマンティック・アセクシャルであることを認められず、シスヘテロ男性に流されるまま交際した。なぜかって、結婚適齢期であったし、いつか結婚しなければならないと思っていたから。恋愛至上主義世界でいうところの不文律だ。この世界で生きていくには『婚姻』というレールにのらなければならないと思っていたわけだ。当時の私の視野は狭く、世界も同様に狭かった。
当時はっきり自覚していなかったとはいえ性嫌悪があり、接触にもかなり抵抗感があった私にしてはかなり譲歩をしたつもりだった。相手が手を繋ぎたそうだったら繋いだし、別れのキスやハグも我慢した。しかし、結局のところ『我慢』は『我慢』以外の何物でもなく、私の鎮痛剤は”愛”ではなかったから、そのうち無理が来た。無理が来はじめたころ何気なく言われた、「そろそろいいでしょ(こんなに我慢してるんだから、そっちも譲歩してくれていいでしょ、の意であったと私は思う)」という言葉が決定打だった。
恋愛至上主義世界の人からすると、私の我慢は”譲歩”の範疇にすら入っていなかったわけだ。当時はショックだったし、徒労感に襲われて、全てが嫌になった。私はそもそも、無駄な努力も我慢もしない主義である。そのまま、流れで別れた。(と、思っていた)

まあこれは私視点での話でしかないので、彼は彼なりの言い分があるだろうが、なんにせよ、2年の歳月を超えて、彼はワンチャン…もとい、鎮痛剤を求めて来たわけである。
以前、アセクシャルにおけるヘテロからの『待つよ』問題について書き殴ったnoteがあるが、まあ言いたかったことはここに尽きる。


長々と愚痴の繰り言みたいに書いてしまったが、そもそも”愛”って、そんなにいいもんなのか?というのが正直な感想だ。世間的に”愛”とされているものの多くは、特定の人間の全ての行動を赦す免罪符のように私の目には写る。”愛”という大義名分を掲げれば、搾取も、度を超えた執着も、束縛も、重荷も、すべて”愛とはかく素晴らしいもの”と言わなければならない。それを強要するのもされるのも、ひどく苦痛だ。
親に愛された自覚はあるが、その”愛”がひどく窮屈で苦しかった経験がある子供は少なくないだろう。病弱なこともあり、所謂箱入りで育った私は、思春期に過干渉気味の母親が嫌で仕方なくて、とにかく早く家を出なければという焦燥に駆られていた。いまでこそ親との関係は良好だが、それもここ5年くらいの話だし、私も母も年を取って、適切な距離感を学び、落ち着いただけの話だ。いまだに私の家の鍵を持ってる母は到着5分前アポで訪問がデフォルトだが、彼女は私がいないときに上がりこんで家探し(もとい、掃除)をしなくなった。まあ、現在の私の自宅は汚部屋から独房にクラスチェンジしたので掃除する隙がなくなったというのもあるだろうが。

”愛”=”鎮痛剤”ではない私にとって、現実・フィクション問わず、”愛”という美名の名の下に行われる数々のお芝居はいっそ不気味だ。
恋愛・性愛がわからない私からすると、”愛”という言葉を大げさに言い換えるのなら、”執着”だと思う。

”愛”という言葉で想起するのは前述のバロウズの絶筆だが、もう一つ挙げるならヒッチコックの『めまい』だ。”愛”という美名の名のもとに他者を消費し、搾取する男の姿を描いた映画だが、当時あまりにも『娯楽映画といえばヒッチコック』というイメージがつきすぎていたためか評価されなかったという話がある。ただ、私は恋愛・性愛がわからずとも執着であれば理解ができるのもあってか、この映画がたまらなく好きだ。執着の果て、そこには無常を体現したような荒野しか残らなかった話、エゴにまみれた人間の醜い姿が、はかなくもかなしい。

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アルフレッド・ヒッチコック 『めまい』 1958年公開

私の愛犬に対する”愛”は無私の愛であると言いたいが、結局自己愛の範疇だと思う。(何故か、愛犬のうち1匹はやたらと私に似ているのだ。恐ろしいことに)これも言ってしまえば”執着”だ。
私は他人に執着することが怖い。嫌悪すらしている。なぜかって、人からされた執着がひどく煩わしく、窮屈で、つらくて、モノのように扱われている心地だった。なのに執着する側は恩着せがましい面をしていて、ただただ腹立たしい経験ばかりだったからだ。私はそれを他人に押し付けたくない。加害者になりたくない。結婚する・しないに関わらず、子供が欲しいとは思わないのは、先述の理由が大きい。私はあれだけ母の腕の囲いから出ることを切望していたのに、きっと子供ができたら子供を自分の腕の中に囲い込むだろう。なぜわかるかって?愛犬に対しての態度がまったくそれだからだ。犬は飼い主にすべての責任が発生するからそれが許されるが、独立した自我を持つ子供にそれを押し付けることは許されない。

『視野が狭い』『本当の愛を知らない』と言う反論もあるだろう。それもきっと真理だ。ただその真理は、言った当人の話であって私の話ではない。悲しいかな人間の思考は並列化できないのだ。

人に執着するのもされるのも正直ごめんだ。私はずいぶん疲れてしまった。生きることの苦痛を癒す鎮痛剤として他人を消費したくない。そして何より、消費されたくない。年を追うごとに身軽になっていきたいと思うのに、現実世界では真逆の現象、いわば負の再生産が起こっているように見える…。
そう思うと、仏教の『執着を捨て解脱を目指す』という価値観を勉強したわけでもないのに同じようなところに行きつくのはなかなか面白い。(手塚治虫の『ブッダ』くらいは履修したが)さすが仏教が根付く国に生まれただけあるし、さすが紀元前六世紀から続く宗教なだけある。私の精神性は確実に日本という国と紐づいているのだなあと不思議な感慨すら沸き起こる。
今世ですでに疲れている俗人としては死後の世界も輪廻転生も正直勘弁願いたいが、まあ死んでみないことには分からないことだろう。

なんか前回と似たような着地になってしまったが、まあこのnoteは私の日記のようなものなので、許してほしい。
それでは。


前回の、『人間が結婚する一番の理由って結局未来への不安を忘れたいからでは?』という繰り言です。お暇なかたはよければどうぞ。


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