見出し画像

最適解を出すための備忘録(30代の価値観のひとつにしようと思う)

いい考えが浮かんだ時に
その場で「大きな独り言」を言うようにしてる。

タバコの煙や水蒸気のように
ふわっと浮かんで
はかなく消える

それを手掴みすることはもうできないのです

私は、発想したものは
それらと同じものと思っているため

できるだけ早く言葉にして出していく。

今回の備忘録noteも雑記になっていくだろうけど

私の30代の価値観を育てる必要な過程でもあるから。


さて、今回

すっと消えてしまいそうな、
ひらめきというのはこちら。


「期待しない=手放す」だ!

・・・
・・・
・・・





うーん、言語化するとなんか違うんだよなぁ。


もともとの話から始めるか・・・・。

言いたいことを箇条書きにするか。

・朝仕事ないから、幸せ
・朝仕事ないから、夜が幸せ
・朝仕事ないから、寝入りがスムーズ
・朝仕事ないから、睡眠の質も高い
・朝仕事ないから、朝早く起きなくていい
・朝仕事ないから、なぜか早起きができる
・朝仕事ないから、目覚めが良い
・朝仕事ないから、心と体に合わせた生活から始めることができる
・朝仕事ないから、暇を持て余す
・朝仕事ないから、朝から暇つぶしをする
・今、noteを書いている

という、流れで
文字化すると、横・縦・後ろ・斜めに読むと不思議な現象が起きる。
ちなみに、書いては消している書き手の私も今不思議な気持ちになってる。

え?何が言いたいかって?
書いてる私の頭の中だと、書きながらこうなっている。


朝仕事ないから、幸せ
朝仕事ないから、夜が幸せ
朝仕事ないから、寝入りがスムーズ
朝仕事ないから、睡眠の質も高い
朝仕事ないから、朝早く起きなくていい
朝仕事ないから、なぜか早起きができる
朝仕事ないから、目覚めが良い
朝仕事ないから、心と体に合わせた生活から始めることができる
朝仕事ないから、暇を持て余す
朝仕事ないから、朝から暇つぶしをする
・今、noteを書いている

理由→結果

「 理 由 」を消してみると

やりたかった結果だけ残り

結果が欲しくて
理由をつけて生きてきた自分が「今ここにいる」わけ。


1つの事象に対して
言語化しては抽象度を上げる癖がついている私にとっては
なんだか新しい価値観の芽が
ぽつぽつと出てきた感覚になっている


うーん、なんか人によっては
当たり前なことなんだけど
そんな当たり前な考えでさえも新発見になってて

とらえ方によっては、この価値観だけで
どんな結果も手に入ってしまうのでは?というロジックを
見つけてしまったような、ワクワクだ。

常に答えを探すような
自分の心情を代弁してくれる言葉探しを永遠としているような
沼ではなく

自分の言語化だけで、
いくらでも沼から出たり入ったりできる自由度が見つかったような感覚だ。

・・・




ああだめだ、もう煙のように
もう記憶から消えてしましそうだ。

待ってくれ、手を止めずに書くから
書き続けるから消えないでくれ。


さて、話をもどそう。

朝の仕事がないだけで、ありえないほどの多幸感を得ているのだ

これは偶然の多幸感だとしたら、

ラッキー!って通り過ごすけど

必然の多幸感だとしたら?

必然になるロジックがあるわけだ


そう思って、なんで?どうして?これからもできる?
再現性があるならば、コツは?と考え出す。


例えば、自分の今ある「最大限の価値観」で考えてみてほしい

楽しい、豊かだと感じる「感覚」は
何か理由やきっかけ、自然に行動を起こすトリガーがあるわけだ

今の私は、「没頭・脱力」の繰り返しが今の1番の豊かさであり、

このように、やりたいことがはっきりしている。



つまり

自分がなりたい「結果」はもう知っているわけ。


それに理由が、後ろについてきて

「○○するために●●する」と考え物事に着手する
それは
「結果を出すために理由を埋める」をいう流れだ


自分も「痩せるためにダイエットをする」と思ってやってるが
なんだか続かなかったり、うまくいかないとやめてしまうこともある。

それは、
理由づけがはっきり決まってない「後付け理由」だと思ってる


・・


今日の話

・朝仕事ないから、やりたいことができている

という「やりたかったこと」が叶ったとき

「これは必然の多幸感」と気づいて、こうやって言語化しようと頑張っている。


「やりたいこと=結果」
「手放したこと=理由」

だとしたら?

note冒頭の

「期待しない=手放す」だ!

これは、少しズレた言語だったかもしれない。

では、なぜ期待しないというワードを出したのだろう。



手放すという行動は、
「もう期待できない・しない」と分かった時にできる行動だと思ってるからだ。

・・・
・・

自分の狭い価値観だけで凝り固まった「こうであろう」という

「「「固定概念」」」

こいつがなんとも厄介だ。


新しい情報や何かに出会いたいのならば

「厄介な固定概念」を「手放す」

何かを得るために、手放す


・・・

あー、文字にしてしまうと

こんなにも

安っぽい言葉になってしまうのか


ち、ちがうんだ!もっと、こう、なんというか、情熱が文字にのらないんだ!わかってくれ!

といっても
表現力から目をそらしている自分がいる。
くっ、、、悔しい


「必然の多幸感」を手に入れるロジックを
感覚値で手に入れれそうな今の私は


答えがでそうだけど

出してしまったら一気につまらなくなってしまいそうで怖いと言う感覚にもなる

多幸感を得る恐怖である


それでも進んでみよう




結果を得るために

ちっぽけな固定概念で「理由」を後付けしてる


10代20代をそのように過ごしてきたが

経験を積みながら、不思議に思っていたことがある

望む結果が得れた場合は、「明確な理由」がハッキリ分かるときが多かった


しかし、
結果を得る前の「後付けしようと思っていた理由」が変わっているのだ


理由を押し通したら
結果は変わっていただろう


うん、それはわかる


ただ、後付けする理由について固定概念を手放して、結果にふさわしい「理由」がハマったとき

「望む結果」が出るということだ。

あ、やっと
手づかみできない煙のような考えが
言語化されてきた

そうそうこれ、これだ。

結果が決まっているなら
結果にふさわしい理由を変えまくる


今のちっぽけな固定概念で決めた理由なんかで
望んでいる結果が得られるか?

結果のために
固定概念を手放しながら
バチッと結果にハマる理由が見つかるまで
色々試し続けることだ。

何十周も思考を巡らせて
結局ありきたりな言葉に行き着いたかも
しれないが

これは私が、アウトプットという「経験」から
生み出した価値観だから、宝物だ。


最後に、

手に入れたい「財」「縁」は
想像できる範囲にはないんだと
割り切って、自分の価値観の外にあるのだと
探しにいくことは、遠回りではなく

自分の最適解という納得できる近道かもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?