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種類別自己肯定感

あけましておめでとうございます。人から「noteやってたんですか?」と言われるくらい更新されていないnoteへようこそ。本年もよろしくお願いいたします。

はてさて、昨日とある人が「自己肯定感」というワードについて、懐疑的な発言をされていて、まあ、確かに「自己肯定感」ってなんだかすごくフワフワしていて、人によって解釈や定義が大きく異なるワードだな、と私も思いました。

私が今ぱっと思いつく限り、ざっくり「自己肯定感」と呼ばれる状態は「鼓舞型自己肯定感」と「言い訳型自己肯定感」があるような気がします。

例えば、何かの試験があったとして、それに対して「私はきっとできる。だからがんばろう」と言う考え方をするのが「鼓舞型自己肯定感」。「私はきっとできる。だから勉強なんかしなくても大丈夫」と言う考え方をするのが「言い訳型自己肯定感」。「私はきっとできる」というところまでは同じなのですが、その後の思考回路は大きく異なります。

何かに挑戦する時、鼓舞型自己肯定感が低いあまり「もしかしら駄目かもしれない。だから挑戦するのをやめよう」と考えてしまう人がいます。「自己肯定感」を高めよう!という運動は、そもそもそういう人の鼓舞型自己肯定感をあげることで、もっと色んなことにアグレッシブに挑戦できるようになったら素敵だよね、と言うことだったのではないでしょうか。

特に、恋愛面で「自分なんか愛されるわけがない」と一歩前に進めない人に対して、「あなたは素敵な人なんだから、がんばってみなよ」という意味で「自己肯定感を上げましょう」という言い方をされていたように感じます。

しかし、鼓舞型自己肯定感と言い訳型自己肯定感の境目というのはとても曖昧で、鼓舞型自己肯定感を上げようと思っていたのが、いつの間にか言い訳型自己肯定感にすり替わってしまうということは往々にしてあります。(私もあります)

よく「ありのままの自分を愛そう」とか「ありのままの自分を愛してくれる人を探そう」みたいな言い方をしますが、そういう言い方をされると「努力しなくていいんだ」と解釈する人がいます。(実際そういう意味で言っている人が多いかもしれません)

「ありのままの自分を愛そう」というのは、例えば、私は歌やダンス、演技が一切できません。悲しいくらい才能がありません。でも、文章を読んだり書いたりすること、考えごとをすることは、人より少しばかり得意です。だから「自分は歌もダンスも演技もできないなんて、なんて駄目なヤツなんだ…!」と自分を責めるのではなく「自分にはできないことがある。でも、できることだってある。だからできることをがんばろう」という考え方のことを指していたのではないでしょうか。(アナ雪のエルサは自分の「魔法」という能力を恐れるのではなく受け入れてそして使おうと言っているのでこっちです)

それがいつの間にか「ありのままの自分が素晴らしいのだから、何かを必死にやる必要なんてない」という考え方で、そういう言い方をする人が出始め、そういう意味が広がって行ったのでしょう。

そもそも「自己肯定感」という言葉を見かけ始めた時には「だからがんばろう」という気持ちがセットだったように思います。でも、いつの間にか「だからがんばらなくていい」という解釈をつける人が増え「自己肯定感」という言葉に対して、ネガティブな印象を抱く人が現れ始めたように感じます。

私は自己肯定感が低くて、よく人に心配や迷惑を掛けます。私は「自分はダメなヤツだから、人から好かれたり、幸せになる権利なんかない」と考えています。でも、私のことを好きでいてくれる人からすると、そんな考え方をする私はとてつもなく面倒くさいヤツですし、さっさと幸せになってもらった方が無駄な心配をしなくて済みます。

あと自己肯定感が低いと、無駄に他人に嫉妬をして多方面に迷惑をかけることがあります。他人がどんなに恵まれた状態であっても「人は人!自分は自分!」と言い切るためには、やはりある程度自己肯定感が必要に思います。

だから私はよく「自己肯定感を上げたい」と言います。それは、私のことを好きでいてくれる人に対して、余計な心配や迷惑を掛けないためであり、色々な物事に対して、前向きにチャレンジするためです。「自分はできる。だからがんばろう!」と自分を鼓舞するために言っていることです。

私が何を言いたいかと言うと、いざという時に、自分自身の背中を押してくれるものが「(鼓舞型)自己肯定感」であるならば、やっぱりそれはあった方がいいのではないかと言うこと。うっかり「言い訳型自己肯定感」に変わってしまわないように気をつけたいということ。そして、必要以上に「自己肯定感」という言葉が嫌われないといいな、ということです。

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